<海外貧乏旅行日記>



           <旅游>

 
 中国の山奥でバスが故障して動かなくなった。どうも直りそうもない。あきらめて歩き、旅社を探したが近くにはないらしい。ヒッチハイクにトライしたが、めったに車が通らず、手を振って合図しても止まってくれない。やっとタンクロリーが止まり、狭い車内には故障したバスの乗客がぎゅうぎゅう詰で、タンクの上に乗せてもらった。くねくね曲がった山道は、高いタンクの上でヒヤヒヤだった。途中1人降り、車内に乗せてもらうことになった。ほとんど中国語ができない僕を、中国人がけげんそうな顔をして「おまえは、どこのやつだ?」と訊いた。「日本人」と答えたが誰も信用しない。「身分証を見せろ!」。パスポートを見せると驚きの声を上げ信用してくれた。「なぜ中国に来たんだ?」。僕は「旅」という意味の中国語を一つしか知らず、「旅游」と答えた。運転手はタンクの上を指さし、「旅游?!」と絶句し、その場の中国人たちは、あきれた顔をして笑っていた。

         <三峡上り>
 
 長江を重慶から下る「三峡下り」が一般的だが、旅のコースの都合上「三峡上り」になってしまった。出発地の宣昌に鉄道で着いた。安宿は「外人はだめだ」と断られ続けた。この町は公安の指導が厳しいのだろう。親切な中国人に案内してもらって、やっとバスターミナル近くの安宿の4人部屋だったか、6人部屋だったかを貸し切って泊まらせてもらえた。渉外賓館のシングルに泊まるより、ずっと安かった。さっそく重慶までの船の切符を買いに行った。「三峡下り」は中国人料金で買うのは難しいと聞いていたが、「三峡上り」は問題なく中国人料金で買えた。
 
 翌日、大型船に乗り込んだ。観光客らしい人は少なかった。出航すると船はダムのゲートに入った。水門が閉ざされ水位を上げ、上昇し船は数十メートルの高さのダムを超えた。雄大な山々を両岸に見ながら進んで行った。山々の形や色に変化があり楽しめる。風景が美しいというより、船が進行し風景が次々と変化していくのに感動した。下りなら風景の流れが速く、いっそう感動的だろう。ガイドブックを読むと、西陵峡、巫峡、瞿塘峡という三つの名所を通過しながら進んでいるらしいが、どこがどれなのかわからなかった。
 
 川の水は黄色く濁りどろどろしていた。かなりの量のゴミが流れていた。川沿いの住民が長江をゴミ捨て場としていた。子供の死体まで流れて来た。さすがの中国人もこの時ばかりは無関心でいられなかった。幼い子供連れの母親は怯えて「小心(気をつけて)!」と声をかけ抱きしめた。シャワーを浴びようとシャワー室に入ったが、湯はザアザア威勢良く出るが熱くて浴びれなかった。後で聞いた話では、あのシャワーの熱水は汚い長江の水だった。
 
 三峡は通過し、翌朝、万県という町に着いた。外に出てみた。万県は今までに訪れたことのない中国のさびれた港町の雰囲気が漂っていた。ここから先の船旅は、ありふれた景色しか見えないらしいので、万県で降りることにした。
 
 僕の部屋には「三峡上り」で撮った3枚の写真が並べて飾ってある。うまく撮れていない失敗作だが、並べた写真を見るたびにあの時の雄大な山々が流れて行く光景を思い出す。


         <万里の長城ツアー>
 
 北京を歩いていると客引きが声をかけた。近くにバスが数台並んでいる。万里の長城行きのツアーらしい。値段を聞いてみると安い。「地球の歩き方」を読むと万里の長城までの交通手段が難しそうだ。
 
 翌朝、この長城ツアーに参加した。途中、明十三陵なども回るが、くだらないところにも連れて行かれた。歴代の皇帝たちの残虐行為をロウ人形で表現した展示館。毛沢東の革命の偉業を称える展示館。作りが安っぽい割に入場料が高い。遊園地にまで連れて行かれたのには、閉口した。観覧車に乗って、龍宮城の模型の世界を巡った。浦島太郎が龍宮城に招かれて楽しんだ物語を題材にしているような感じだ。浦島太郎の物語は、日本でなく、中国が起源なのだろうか? 遊園地の観覧車に乗っているのはほとんど大人だった。中国人たちは歓声を上げ極楽郷の模型を楽しんでいた。僕は観覧車での「龍宮城」巡りは非常に不愉快だった。
 
 3時過ぎにやっと万里の長城に到着した。バスから降りるとそこは熊園だった。熊園の向こうに万里の長城があるらしい。熊なんか見たくもないので、ツアーの責任者らしき人と入り口近くでもめた。そのせいで、外人とバレてしまい。熊園の外国人料金を請求される最悪の事態となった。熊なんか見ず、足早に熊園を通り過ぎ、万里の長城の中国人用の入場券を買い、中国人用の入場券を入り口で渡した。鋭い係員に見破られてしまい、僕は万里の長城の方へ、一目散に走って逃げた。やっと万里の長城に辿り着いたが見学時間が短く、「世界最大の建造物」をじっくり観賞している暇はなかった。
 
 その後出版された「地球の歩き方」には、「事前に評判を聞いてから予約したほうがよい」と注意がうながされていた。安いからと、飛び乗った自分がバカだった。

 
       <没有!(メイヨー!)>
 
 まだ共産主義と称されていた中国で、せっけんだったか、ボールペンだったか、日用品をデパートで買おうとした。安っぽいものが大事そうにショーウインドウの中に入っていた。店員に「これをくれ」と指さすが、店員たちはおしゃべりに夢中で、相手にしてくれない。なんとか買おうと店員に話かけるが、彼女は不機嫌そうな顔をして、「没有!(ない!)」と怒鳴った。シヨーウインドウの中にちゃんとあるじゃないか!客に商品を売るより、自分たちのおしゃべりのほうが大切なのだ。
 
 汽車の切符を買おうと数時間並び、やっとたどりついた窓口で「没有!」。ホテルのフロントで「部屋はありますか?」と尋ねたら「没有!」。空き室があっても、服務員が気が向かずチェックインの手続きが面倒なときは、「没有!」と言って断ることがあったらしい。共産主義の風潮が濃く残っていた時代は、「お客様は神様」でなかった。客はホテルに泊まらせて頂く、商品は売って頂くという低姿勢で、接しないと、「没有!」と怒鳴られ、一蹴されることがしばしばあった。中国での衝撃は、万里の長城などの遺跡や広大な自然ではなく、剣のある言葉「没有!」だった。バックパッカーが書いた旅行記に「没有の嵐」という表現が出てくるが、まさに「没有の嵐」の中を進んで行く、苦難の旅だった。
 
 欧米人バックパッカーの溜り場・陽朔に「没有飯店」という傑作な名前のレストランがあり、「没有!」と書かれた特製Tシャツが売られていた。僕はすっかり気に入った。しかし、「没有Tシャツ」を着て、日本人バックパッカーに会うとヒンシュクを買うのだ。「没有」という漢字を見ただけで気分が悪くなる日本人バックパッカーがかなりいるらしかった。疲れてしまって着るのはやめた。最近の中国は資本主義経済の発展により、客を大切にするようになり「没有!」は死語になりつつある。今でも「没有」と言われることはよくあるが、あっさりした口調で、あまり気にならない。「没有!」と怒鳴られることはまずなくなった。「没有の嵐」は去った。誰かが言っていたように、「没有!」のない中国はもはや中国でない。
 
 夏の日本で「没有Tシャツ」を着て、時々外出するが、人々は無関心で「没有Tシャツ」を着ていても平穏無事な日々が送れる。一昔前の中国を個人旅行した人間でないと、「没有!」=「ない!」の凄まじいインパクトは全く理解できないだろう。
                                

         <漓江下り>
 
 中国屈指の観光地桂林のハイライトは、山水画の世界が満喫できると言われている漓江下りだ。桂林郊外から船が出発すると両岸に山水画に描かれている山々が迫ってきた。まさに山水画の世界だった。はじめのうちは興味をそそられていたが、しだいに飽きてきて、いびつなかたちの山々にしか見えなくなってきた。美しく感動的な光景ではない。部分を巧妙にきり切り取れば美しい写真もできあがるが、奇異な風景にしか見えなくなった。中国人も僕と同じ感覚らしく甲板で景色を眺めている人は少なくなり、船内で雑談をしたり、眠ったりしている。中国人料金の4倍もする外国人料金の高いチケットを買った僕は、ほとんど誰もいなくなった甲板で、感動的でない風景を終点の陽朔まで辛抱強く眺め続けた。
 
 陽朔は「Nice!」と欧米人バックパッカーから聞いていたので、ここに滞在することにした。小さな町だが、驚くほど多くの欧米人バックパッカーがいる。北京や上海より多いのではないか。「地球の歩き方」には簡単に紹介されているだけなので日本人の姿はあまり見なかった。中国を皮肉った「没有飯店」、「HARD SEAT CAFE」など笑ってしまう名前のレストランがあった。外国人向けのレストランには中国人は座っていず、ほとんど欧米人ばかりだった。僕がレストランに座っていると欧米人から妙な目で見られることがあった。店の人は「Japanese」と紹介した。「How much?」さえ中国では一般に通じなかったのに、ここは英語が通じる別世界だった。

 陽朔が欧米人から評価されるのは山水画の風景でなくバックパッカー向けのゲストハウスや欧米人好みのレストランが軒を連ねているからだろう。何人かのバックパッカーに漓江下りの感想を聞いたが、不評が広まっていたらしく、体験者はいなかった。「地球の歩き方」では漓江下りを絶賛していたが、趣味に合わない名所だった。

         <トルファン>
 
 柳園の鉄道駅近くに座っていると、日本人から声をかけられた。敦煌で知り合った人だった。彼はトルファンまでの列車の切符を持っていた。僕はハミまでだった。同じ列車だった。彼は漠高窟の外国人料金が高いと怒り見なかったらしい。わざわざ敦煌まで行き有名な漠高窟を見なかったとは・・・。漠高窟は岩に数百の穴が掘られ、中に壁画が描かれていたが、僕もこの遺跡にはあまり興味がわかなかった。
 
 彼と列車に乗り込んだ。立っているのもきつい込み具合だった。中国人料金の倍の外国人料金を払っているのだからと、食堂車に居座った。敦煌でもそうだったが、彼は何かにつけて中国人の悪口を言っていた。「こいつら、没有、没有って言いやがって!没有しか言えないのか!」。彼がどんなひどい目にあったか自分の体験から、だいたい想像できた。列車は、どこまでも続く広大な砂漠の中を走っていた。彼は砂漠にまで怒りをぶつけていた。「こんな広い土地がありながら、こいつら何をやっているんだ!」
 
 食堂車には列車の乗務員が集まりスイカを食べはじめた。汁がボトボト落ちるのを気にせず豪快に食べている。食べを終わると乗務員は、窓にかけられているカーテンで、手や口をぬぐった。食堂車の床にはおびただしいスイカの皮が散乱していた。漠高窟よりは見ごたえのある光景だった。清掃係らしい人が集め、列車の窓から捨てた。スイカの皮にかぎらず、乗客の出すゴミは窓の外に捨てられるので、線路沿いはゴミだらけだった。
 
 夜の9時頃ハミに到着したが、彼は「トルファンまでいっしょに行こう」と言った。食堂車に座れたことだから、僕もトルファンに行くことにした。ところが食堂車から追い払われてしまった。再び混んだ車両に戻った。しゃがむことすらできない混みようだった。トルファンには早朝着くらしい。立ったまま一晩過ごさねばならない。旅なれた彼ならこの事態は予想できたはずだ。僕はこの事態を避けるためハミで1泊しようとしたのである。身動きできない車内で辛くなってきた。彼も苦しそうだった。急ぐ旅でもないのに、何でこんな目までして目的地に向わなければならないのか? むしょうに彼に腹が立ってきた。旅のスタイルが違う旅人とは、いっしょに旅をすべきではない!
 
 早朝トルファンの駅の長いすに彼は倒れ込んでしまった。僕1人で駅から50キロ以上離れたトルファンの町に向うことにした。英語で車に乗れと誘ってきた。中国で英語で話しかけられた経験はめったになかったので不審に感じたがついて行った。軽トラの荷台に欧米人ばかりが乗っていた。英語で話しかけたのは、西洋人の顔をしたウイグル人だった。荷台は乗客でいっぱいなのに、彼は遺跡巡りツアーの予約を勧め軽トラを動かそうとしない。疲労こんぱいしている僕は「Go! Go!」としか言わなかった。商売に無関心な中国人と接しながら旅をしていて、彼の商売熱心さには驚きだった。しかし、数年後、経済開放政策が進み、異常な拝金主義の風潮が中国全土に蔓延し、彼のような商売熱心な人間に中国いたるところで出会うようになった。
 
 トルファン賓館のドミトリーにチェックインした。しばらく、仮眠を取り町に散策に出かけた。ほとんどがウイグル人で、女性は色鮮やかな民族衣装を着ていた。道には背の高いポプラ並木がつらなり、ロバ車が走り、道沿いの小川でウイグル人の子供が川遊びをしていた。町の通りにはアケードがあり、天井には葡萄の木を茂らせ、葡萄の実がなり、葉で日が遮られていた。バザールは、漢民族の市場とは雰囲気が異なり、イスラム色が濃かった。イメージ通りのシルクロードのオアシス都市だった。

 ウイグル人たちは陽気でフレンドリーだった。村を歩き、村人にカメラを向けても快く応じてくれた。家の中に招待してくれる人もいた。同じ中国でありながら、文化も人々の性格も漢民族とは異なっていた。「蘇公塔」という遺跡に行ってみた。確かに記憶にある風景だ。何年か前、テレビで見たことがある。テレビでの印象は世界のはての地だった。まさか、自分がこんなところに来ようとは思えなかったので感動した。期待しながら、目的地に着くとあらかじめ抱いていたイメージと異なり、失望させられることがほとんどだが、トルファンは思っていた以上の素晴らしい所だった。


          <バラナシ>
 
 ヒンズー教最大の聖地バラナシ。ガンジス川の岸辺に座っていると、大勢のヒンズー教徒が沐浴したり、神に祈りを捧げる姿を見ることができた。しかし、この厳粛な光景を静かに眺めているわけにはいかない。うさん臭い男たちが隣に座り話かける。たわいもない雑談からはじめるが、彼らはのほとんどは、店に客を連れて行き、いくらかの手数料を得るために日本人に近づいてくる、いわゆる「Commission boy」だ。「バラナシ、サワガシ」と日本語のジョークをコミッションボーイが飛ばす程、バラナシのコミッションボーイは次々に声をかけてきて、本当に騒がしい。しかし、数日で彼らに顔を覚えられたせいか、近づいてくる連中は少なくなった。
 
 死体を火葬するマニカル・ガートに行った。蒔きで焼くのでおびただしい蒔きの山ができていた。死体の焼却を間近で見る勇気がなかったので、10メートルぐらい離れたところで見ていた。ジュウジュウ肉の焼ける音がした。ガイドのインド人が欧米人に説明した。数週間前、冷凍にされた日本人の遺体が飛行機で運ばれ、ここで火葬にされた。生前彼はバラナシで火葬にし灰をガンジス川に流してほしいと遺言を残した。彼は高価な宝石を身につけたまま火葬にされた。インド人たちは宝石を捜して、焼け跡をあさりまくり争奪戦になった。
 
夕方になると、女性のソプラノの哀愁を帯びた歌声がスピーカーから流れる。お経だろうか?宗教的雰囲気がする。ソプラノの歌声に包まれたガンジスのほとりは、まるで別の宇宙のような異次元の世界に感じられた。
 
 神に捧げられる儀式が頻繁にガンジス川の岸辺で繰り広げられ、人々はひたすら神に祈っていた。巡礼者や観光客からカネを取ろうとしている男たちもいた。聖なるものと俗なものが入り混じり、エネルギーを発散していた。

         <カルカッタ>
 
  着陸間近、機内にインドの民族音楽が流れた。遂にインドにやって来たことを実感した。飛行機の窓の外には夕日が見えた。太陽まで、日本の太陽とは違うような気がした。空港を出ると大勢のタクシーの客引きに取り囲まれた。振り切って近くのバス停に歩いて行った。バスでカルカッタ市内に向った。市内は人力車や大八車や人々が行き交い混乱していた。バスから降り安宿街サダルストリートに着いた。宿はどこも満室だった。マリアホテルの屋上に、その夜は寝かせてもらった。部屋のベッドで寝るのと宿泊費は同じだった。
 
 翌日カルカッタの町を散策した。「カルカッタは1メートル歩くごとに驚きがある」と本で読んだが、実際そうだった。乞食たちの姿が目に付いた。炎天下の路上で両手両足のない若い乞食が寝そべっていた。乞食として生きるため切断したらしい。誰かのカネ儲けの道具とするため両手両足を切断したのかもしれない。薄汚れた建物の間を妙に多くのカラスが飛び交っていた。歩道は人々で混雑しおよそ秩序というものが感じられなかった。日本を出発して台湾・香港・シンガポール・マレーシア・タイと進み、インドに着いたが、それまで見た東南アジアとは異質の世界だった。数年後カルカッタを訪れた。乞食も少なくなり、町もこぎれいになっていた。噂によると、乞食はトラックに積んで遠く離れた砂漠のど真中に捨てたということだが、本当だろうか?

         <カジュラホ>
 
 鉄道の路線から、かなり離れているためカジュラホ行きは、遺跡はあまり興味がない僕には気が進まなかった。「地球の歩き方」によるとカジュラホ村はのどかな村らしいが、着いてみると、外国人向けのゲストハウス、レストラン、みやげ物屋が立ち並ぶ、観光村だった。それでも、郊外に足をのばせば、インドの農村風景に出会うことができた。デリーとバラナシから1日1便づつ飛行機が観光客を乗せて飛んできた。空港が村近くにあるので、ごう音や低空飛行で大きく見える飛行機が印象的だった。カジュラホの寺院群は、エロチックな彫刻で有名だが、1度見れば結構というようなもので、数日滞在している日本人バックパッカーも、入場料が安いのに1回しか行かなかった人が多かった。日本食のメニューがある安食堂が数件あった。大半のバックパッカーは、世界的に有名な寺院より、日本食のほうに興味があったようだった。
 
 村の広場に座っていると、みやげ物売りたちが声をかけてくる。「仕事は何だ?」の質問に「No work」と答えたが理解できないみたいだ。「無職」という意味はわかるらしいが、なぜ無職のくせにカネをもっているんだと疑問に感じているらしい。こんなところでブラブラしている日本人は学生か無職のはずなのになんでわからないのだろう? そういえばデリーの外国人ばかりが泊まるゲストハウスで職業欄があり、「Non」と書いたら不審がられ、宿帳を見せてもらうと、欧米人、日本人ともに学生以外は職業が記されて驚いたことがある。1泊300円程の安宿に泊まって休暇を取って旅に出たという人はあまり会わない。仕事についてあれこれ尋ねられるので「日本人を騙してカネを儲けている」とジョークを言うと「オレもだ!」と笑っていた。
 
 みやげ物売りたちと雑談していると、恰幅のいい50才ぐらいの男性があらわれた。彼はみやげ物売りたちと談笑していった。「バカ」と表現すべき時彼は「Children!」という英語を口癖のように使った。カリスマ的雰囲気を感じたので誰だろうと思って、みやげ物売りたちに聞くと「ボス」と言った。彼はみやげ物屋とホテルを経営し、カネ持ちで日本の親しい友人から招待されて頻繁に日本に行っているらしい。何日か後、雑貨店でコーラを飲んでいると「オレにも1本おごってくれよ」と話しかけてきた。芝居っぽい雰囲気だったので合わせておごってみることにした。すると彼は大きな手のひらで僕の肩をパンパンと叩き、「ア、ハハハ」と豪快に笑い立ち去った。田中角栄のような感じがした。巧みなパーフォーマンスで人々を惹きつけ、総理大臣にまでなった田中角栄と彼の姿が重なった。
 
 彼の店には情報ノートがあるというので見に行った。旅の情報だけでなく彼の人望について書かれていた。ただ単に「彼はいい人です」と書かれているのではなく、彼と過ごした体験談が好意的に綴られていた。アルバムも見せてもらったが、日本人たちが彼といっしょに楽しそうに写っていた。彼は子供のときから日本人相手にみやげ物を売っているらしい。しかし、彼は英語で話続けた。理解できず、「え?」と時々問返しても英語で説明した。日本語がわかるはずなのに、けして日本語は使わなかった。「日本語を話すインド人は要注意」と言われているのを知っているからだろう。店のみやげ物を勧めようとせず、チャイ(茶)を飲みながら談笑した。みやげ物を買わずに店を出るときも嫌な顔一つしなかった。

 いったい、どれぐらいの日本人が彼の人柄に惚れこみ、高価なみやげ物を買って、カジュラホを通り過ぎたのだろう。


        <マドラス>
 
 夕方、ティルチラパッリからのバスはマドラスのエグモア駅近くに到着した。駅近くの宿はどこも満室だった。しかたなく2キロ離れたセントラル駅まで行き宿探しをしたが、やはりすべて満室だった。再び大通りをエグモア駅に向って歩いていると、宿が何件か並んでいる路地があった。やっと空き室があった。宿探しで3時間ぐらい歩き回っただろう。疲れた。
 
 北インドには、いっぱい日本人がいたのにゴアから南は皆無と言っていいぐらいだった。北インドと南インドでは町の雰囲気も違っていてまるで別の国のような感じがした。
 
 マドラスを散策していると、50才ぐらいの男が声をかけてきた。マドライから来た旅行者だと言っていた。食堂に行こうとさそうが、断ると、「おごる」と気前がいいので、彼の知っている安食堂に連れて行ってもらった。外見からはとても食堂には見えない。中に入るとテーブルがコの字がたに並んでいて、大勢の労働者風の男が座っている。問題はないようだ。「いくら?」と聞くと4・5ルピー。彼とテーブルについた。やがて従業員が4、50センチに切ったバナナの葉を配った。次にバナナの葉の上に水がかけられた。男たちは手のひらで葉をこすりはじめた。彼は汚れを落とすためと説明したが、僕には食事の前の儀式に見えた。バナナの葉の上にごはんが盛られ、5、6種類のおかずが添えられたヴェジェタリアン料理だった。豪華でうまそうだ。食べてみると本当においしい。おかずがなくなると、つぎに来る。無料だ。日本で工場のアルバイトをしていた頃の配達弁当を思い出した。なんて貧相な弁当だったんだろう。この豪華な食事はインドの底辺の労働者の食事だ。
 
 食事が終りカネを払う際に、彼は「払え」と言う。彼のおごりということだったのに・・・ 安いし、いい経験をさせてもらったのだから、「ま、いいか」と10ルピー札を出した。おつりの1ルピーは彼が受取り、自分のポケットに入れた。1ルピーは約10円だった。僕はあきれて笑ってしまった。そんなに悪い人ではなさそうだが、あまり長くはいっしよにいないほうがいいだろう。
 
 店を出てマリーナビーチに行こうとすると、彼がついて来る。「1人で行く」と早足に振り切ろうとしたが、離れない。海岸線をトボトボ1キロぐらい歩いただろうか、彼は突然「ワレット!ワレット!」とわめき、歩いてきた道を10メートル程引き返し、何かを探している。「何事か?」と思ったが、「ワレット」は「さいふ」という意味に気づき事態を了解した。彼は狭い範囲を必死で探し回っている振りをしている。1分もしないうちに「ワレットは海に流された。マドライに帰るカネがないから、200ルピー貸してくれ。カネは明日セントラル駅で返す」と言う。マドライに帰るのに200ルピーもいらない。さいふを探す姿がどう見ても芝居だ。「さいふは食堂で落としたんだろう。食堂に行け」と僕は言った。彼は僕と歩いた海岸線をさいふを探しながら戻るのではなく、町の方へ帰って行った。

         <ジョードブル>
 
 ジョードブルに向う寝台車に乗るためデリー駅に行った。デリー駅で、時刻表を見ていると切符に書かれた列車がない。切符と時刻表を何度も見返していると男が声をかけた。「どこに行くんだ?」 「ジョードブル」 「ジョードブルに行く列車はここからは出ない。サラーイ・ロヒーラ駅だ」。ビックリして僕は駅員に確認したが、間違いないらしい。あわてて、サイクリクシャでサライロヒーラ駅に向った。間に合い乗ることができた。列車で乗り合わせた日本人に、「デリー駅の外国人用切符売り場で、切符を買ったのに出発駅がサラーイ・ロヒーラ駅だと説明がなかった! てっきりデリー駅から出発すると思ってしまうじゃないか!」と不平を言っていると、「地球の歩き方」にはジョードブル方面の列車は、サラーイ・ロヒーラ駅から出ることが書いてあるのを教えてくれた。
 
 翌朝、ジョードブルに着いた。彼は今晩の列車でジャイサルメールに行く予定だったので、駅近くの「地球の歩き方」で「居心地がいい」と紹介されていたツーリストバンガローのドミトリーに彼といっしょに行き、部屋をあらかじめ見せてもらわず、チェックインした。広い部屋に10台以上ベッドがならんでいたが、宿泊者は僕たち2人しかいなかった。ドアにはカギがかからなかった。いつ荷物を盗まれてもおかしくない雰囲気だった。この宿に泊まっているのはインド人ばかりで外国人は僕たち2人だけのようだった。「この部屋は安全性に問題がある。早く出ていったほうがいい」という意見で僕たちは一致した。
 
 さっそく町に宿探しに出かけた。古い町の家々の壁は青く塗られていた。この町の昔の王様が青色が好きだったらしく、その伝統が今も引き継がれていた。「地球の歩き方」推薦のブルーハウスを町の人に尋ねて行った。部屋を見せてもらった。壁が青く塗られ、小さい神棚があり神様が祭られていてエキゾチックな雰囲気だ。この家は300年まえに建てられたという。なかなかいい宿だった。しかし気になったのは、宿を経営する家族が「泊まれ」としつこいのだ。
 
 もう1軒の「地球の歩き方」推薦の宿に行った。安い部屋は空いてなく高い部屋を見せてもらった。シャンデリアがあり、この地方特有の鮮やかな内装が施され高級感の漂う部屋だった。宿の人はこの豪華な部屋を誇らしいそうに案内した。1泊1500円ぐらいし、貧乏旅行の僕が泊まるのは躊躇した。宿の人にブルーハウスのことを言うと、あれは偽ブルーハウスで「地球の歩き方」推薦のブルーハウスではなく、この町のマフィアが経営する宿と言った。インドではガイドブックで推薦された宿と同じ名前の宿や紛らわしい名前の宿が現れることがある。
 
 次は「地球の歩き方」推薦のブルーハウスを、「地球の歩き方」に書かれている住所を頼りに探し当てたが、これが遠いのだ。マフィアが経営すると言われた偽ブルーハウスに数人の外人が泊まっていたので、「まあ、だいじょうぶだろう」と翌日泊まった。何らトラブルもなく過ごせた。日本に帰って考えてみると、2軒目に行った宿の豪華な部屋に1泊でもすべきだった。ラジャスターン地方の上流階級の伝統を満喫できる格調高い部屋が、1500円程だった。

         <ブッダガヤ>
 
 ガヤからオート三輪で10キロ程離れたブッダが悟りを開いた地ブッタガヤに向った。4人乗れば満席になるようなオート三輪に10人ぐらいがしがみついた。ブッダガヤは小さな村だった。散髪屋に行き黙って座っていると、ほとんど坊主刈りにされた。仏教の悟りを開くためにブッタガヤに来た訳ではないのに・・・ 日本人が多く訪れるせいで、日本語がうまい人が多いのには驚いた。日本人と変わらない発音で日本語を話す子供もいた。
 
 スリランカ寺院に泊まった。外に出ると男が話しかけてきた。ブッダガヤに着いてそうそう、スリランカ寺院まで案内してくれたみやげ物屋の主人だ。彼の早口の日本語、てきぱきとし身の動きからカネに対する欲望が見えてくる。「トモダチになりたいだけ」と言うが、最後には彼の店に連れて行かれて法外に高いみやげ物を買わされるだろう。人相も悪くないので、あまりの押しの強さに負けて、遺跡や村を案内してもらった。田んぼでは女たちが農作業をしていた。薄汚れた格好ではなく、色鮮やかなサりーを身にまとっていた。小屋のような民家に入った。彼は家の人に声をかけた。家の人は壷を持ってきた。ココナッツビールだと彼は言う。ヤシの木の樹液を醗酵させて作った酒らしい。壷からコップにそそぎ彼が最初に飲んだ。怪しそうな飲み物だったので、ためらったが口をつけてみた。甘酸っぱくてなかなかうまい。ほろ酔い加減になったところで、彼の店に連れて行かれた。袋に入った宝石をザラザラと荒っぽく出した。どれも200ドルから500ドルする。彼はインドルピーでは値段は言わなかった。この当時200ドルは2500ルピーぐらいだったろう。スリランカ寺院が1泊10ルピーだから僕には買えそうもない。だいたい、宝石には興味がない。断ると彼は仏教関係のみやげ物を買うようにすすめた。やはり興味はない。さんざん親切にしてもらった後で、日本語で「お願いだから何か買ってよ~」と泣きつかれた時には、さすがに罪悪感を覚えたが、結局何も買わずにブッダガヤを離れた。
 
 3度目のインドの旅でバラナシからプリーに向う途中、ブッダガヤに寄ることにした。親切にしてくれた彼に会いたくなった。彼はあいかわらずみやげ物やをやっていた。しかし妙に落ち着いていた。淡々と商売をしていた。カネ儲けの執念は消えていた。カネに絶望したのか、人生に絶望したのか、それとも何か大事なものを見つけたのか、僕にはわからなかった。


      <ポカラでのトレッキング>
 
 ネパールのポカラでトレッキングに行くため、情報収集をしていた。現地の旅行代理店で話を聞くと、「1人では危険だ。強盗に襲われる。道に迷う」と脅かされ、ガイドをつけろと、しきりに勧められる。1日当たりのガイド料が10ドル以上もし、貧乏旅行の僕には雇う気になれない。中年の日本人男性に出会った。「1人でもだいじょうぶだ」という。話を聞くと彼はサラリーマンを辞めてポカラに住み、旅行代理店を経営している人だった。留学ビザで長期滞在し、ポカラで小さな店をやっているが、商売に無関心で親切な人だった。日本社会に嫌気がさし、ヒマラヤの麓の桃源郷ポカラに住んでみたものの、落胆しているように見えた。
 
 フェディーから歩き始めることにした。ダウンジャケットとダウンの寝袋を借り、早朝ゲストハウスを出るとタクシーの運転手たちが声をかけてきた。破格値を言った男の後を、「大丈夫かな」と思いながらついて行った。ボロいバイクが「タクシー」だった。苦笑いをして安心して乗せてもらった。
 
 フェディーからビレンタンティーまでは、舗装された道路が開通していたが、細い旧道にこだわり歩き続けた。つり橋を渡りビレタンティーに着いた。夜、近くのロッジでパーティーが催されていた。村人が民族衣装を身にまとい、歌い踊っていた。日本人ツアーの団体が見物していた。日本の旅行代理店がアレンジしたようだ。日本人も踊りに参加し、歓声を上げ、異国の楽しみに酔っていた。
 
 ここからが本格的トレッキングコースだ。翌朝、地図を見て、村人にウレリに行く道を確認し、山道を登っていった。上等なバックパックを担いだネパール人の集団に追いついた。話をすると日本人ツアー客のバックパックとわかった。1人が30キロ担がされている。僕は不用な荷物はポカラのゲストハウスに預けたから、5キロ程だ。荷物を交換して登ってみたが、すぐに音を上げた。こんなに重い荷物を担いで、4、5時間登り続けるのだから驚かされる。彼らの日当は1日5ドルという。
 
 ウレリに着いた。村の入り口近くのロッジはどこも断られた。日本の団体の予約が入っていて泊れない。さらに登り、今夜の寝場所を見つけた「HIMALAYAN VIEW LODGE」。スケールの大きい名のロッジだったが、1泊50円もしなかった。しかし、その名にたがわず、僕の部屋の窓からは雄大なヒマラヤの山々が一望できた。山の宿は非常に安かったが、食事は泊った宿でするのが礼儀とのことだった。


      <断食月>
 
 カイロの町を歩き回っていたら、何だか様子がおかしい。食堂が見つからない。食堂を探し回り、やっと見つけた食堂に入って、食べ物を注文しようとしたら、チャイ(茶)しかないとのこと。チャイを飲みながら、エジプト人と話していると「ラマダーン」という言葉が出てきた。聞いたことがある言葉だ。イスラム教の儀礼「断食月」じゃないか?・・・ すぐに間違いないことが判明した。日の出から日没まで食べてはいけない。外人は断食の義務はないと聞いていた。「地球の歩き方」で紹介されている中華料理屋に行くと営業していて、問題なく食事ができた。
 
 カイロは1日だけで翌日にはバスでアスワンに行った。食堂のテーブルにはイスが積まれていて営業していない。菓子が売っていたので買おうとするが店のおやじは売ってくれない。近くにいた青年が「こいつは外人だから売ってやれよ」と説得しているようだが、頑固なおやじは売ってくれない。エジプトの2週間の旅の間、ほとんど「ラマダーン」につきあうことになった。朝から夕方まで歩き回っているのできつかった。

 カイロに戻り食堂を探すが、ほとんどの食堂は営業していない。あの中華料理屋に行くのも面倒だった。ファーストフ-ドのピザハットがあった。入り口には銃を持った守衛が警備していてものものしい雰囲気だ。何だろうとのぞいてみるとガラーンとしていて営業はしていない。「2階に行け」と言われたので階段を上がった。2階はほぼ満席で、大勢の若いエジプト人が、イスラムの神聖な戒律を破り、ピザをほうばっていた。



<アンコールワット>
 
 プノンペンからタイに向う途中、シェムリアプに寄った。この町に来る途中はすごい悪路で、1メートルぐらいの深さの穴がいたるところにあった。おまけに雨季だったので、ミニバスがぬかるみにはまってなかなか動かない。普通は船で来るものらしいが、ミニバスの方が安いので陸路で行った。船で行けば良かったと後悔した。

  シィエムリアプは世界最大の仏教遺跡アンコールワットのある町だ。写真で見る限り、タイのアユタヤ遺跡やスコタイ遺跡と変わらず、タイの仏教遺跡を見飽きてしまったので、あまり興味はなかった。だが、せっかくシェムリアプまで来て、世界的に有名なアンコールワットを見ずに通り過ぎるのも、もったいない気がして、見に行くことにした。タイで見慣れた仏教遺跡と区別がつかず、何度も見た遺跡のように思えた。数年前まではシェムリアプにまで来るのは危険な状態で、バックパッカーから数々の冒険談を聞かされた。一般のバックパッカーは仏教遺跡にはあまり興味がないだろう。なぜ彼らは危険を冒してまでここにやってきたのか。同宿の日本人の男も「興味ない」と言って、わざわざシェムリアプまで来て、「アンコールワットには行かない」と言っていた。
 
 シェムリアプの町の食堂に入った。ぶっかけ御飯を頼み、スープを注文しようと大きな鍋の中のスープを見ると2、3センチ角の肉の塊が浮いている。店の主人に「これは何?」と尋ねると「Fish」と答えた。このスープも注文した。運ばれてきたスープの肉の塊を口に入れかむと弾力があって、とても魚とは思えなかった。吐き出してウェートレスに尋ねると「ボー」と発音した。店の主人に聞くと「Fish」という。僕は、「Snakeではないか?」と尋ねると、「同じ」と言った。肉は食べずにスープだけを飲みほした。おいしかった。

 宿に戻り、「カンボジア語で『ボー』って何という意味?」と尋ねるが、発音が悪いせいか通じない。「じゃあ、Snakeは?」 「ボー」と答えた。蛇を口にしたのははじめてだった。

 シェムリアップではアンコールワットより、蛇を口にしたほうが、印象的だった

     <アフリカポレポレ>
 
 タンザニアのアリューシャからンゴロンゴロ自然保護区に向うバスに乗った。ンゴロンゴロ自然保護区は、大昔、隕石が落ちて大きなクレーターができ、そこに動物たちが住んでいるタンザニア屈指の観光地らしい。そこまではバスは行かず途中で降りた。ここから自然保護区までは、自然保護区のジープに乗せてもらった。日が暮れてからジープが自然保護区のロッジの前に着いた。1泊40ドルもする。円高のおかげで4000円程だったが、昨日まで300円もしない宿に泊まっていたのだから、かなり痛い。外に出て安宿探しをしようとすると、「野牛や象が出る。危険だ!」と止められた。暗くなって外に出ると野生動物に襲われる危険があるのは知っていたので、仕方なくここに泊まることにした。それにしても、「ライオンやトラが出る」ではなく「野牛や象が出る」とは・・・。このあたりにはライオンやトラもいるが、人を襲うのは野牛や象ということだ。
 
 翌朝、さっそく宿探しにでかけ、数百円の安宿に移った。直径約15キロ・深さ600メートルの巨大なクレータのふちから眺める風景は非常に美しく、中央に湿地帯か湖のようなものが見えた。ジープをチャーターして、クレータに降りサファリを楽しむのが一般的だが、ジープ1台90ドルもする。サファリは安いケニアですることにして、クレータを眺めたり、近所の村々を散策したりして過ごした。
 
 次の日にはここを去ることにした。朝8時にバスが来るという。7時頃にはバスが止まると教えてくれた場所で待った。バスは9時頃来たが満杯で乗り込むことができなかった。現地の男と2人で待っていたが、「次のバスが来るのは2日後だ」とこともなげに言う。バスでなくてもヒッチハイクで目的地に向えばいい。欧米人観光客のジープは時々来るが手を振っても止まってくれない。彼はとても車を待っている雰囲気ではなく、草むらに寝転び鼻歌を歌っている。ポレポレという有名な言葉がある。ポレポレとは「ゆったり」という意味のスワヒリ語だ。インドでもいつ来るかわからない列車をインド人が駅構内で悠然と待っていたが、ここは大自然の真っ直中である。本当に「ゆったり」とした感じで彼は待っている。夕方になって現地人のジープに乗せてもらうことができたが、その間も彼は寝転んで悠然と待っていた。彼は特殊な性格ではなく、普通のポレポレなアフリカ人なのだろ

    <大苦労のアメリカビザ取得>
 
 ロンドンから飛行機でニューヨークに飛ぶ予定をしていた。事前の情報では、片道航空券でも日本人はビザなしでアメリカに飛べるという話だった。ところが、ロンドンの旅行代理店でニューヨーク行きのチケットを買おうとすると、どこもビザなしでは片道航空券を売ってくれない。ビザがないと航空会社が搭乗を拒否するらしい。
 
 さっそく、アメリカ大使館に行った。すでに受け付け時間は終了していた。翌日アメリカ大使館に行き、申請書類に記入して、数時間並び、窓口に提出した。また明日来いと言う。ほかの部署にも書類を申請する必要があるらしい。また、翌日もアメリカ大使館に行き、数時間ならび窓口に提出した。また明日来い、面接があると言う。面接?・・・ ビザなんてものは写真とカネさえ出せば取得できるものではないか? アジアの国々では外貨獲得のために無審査でビザを売っているようなものだ。しかしアメリカビザは無料である。もしかすると発給拒否もありうる。そうなってしまえばアメリカに行けなくなってしまうと一瞬動揺した。が・・・ 考えてみれば出国チケットさえ買えばアメリカに飛べる。また翌日アメリカ大使館に行った。今度はイスに座って待つことができたが、やはり数時間待たされた。面接終了後、結果は明日知らせるから、明日来いと言う。また翌日もアメリカ大使館に足を運び、数時間待たされた。大使館員が言うには「ロンドンは、OKだ。一応本国に照会するが、今ワシントンは深夜でコンピューターがDownしているから、明日来い」。翌日やっと、アメリカビザのスタンプが押されたパスポートが帰ってきた。
 
 ロンドンに7日間滞在して、6日間アメリカ大使館に通い、物価の高いロンドンで貴重な時間を、アメリカ大使館で無為に過ごした。ビザ取りでこんなに苦労をした経験はない。


        <沈まない太陽>

ロンドンからニューヨーク行きの便に乗った。窓際の席だった。夕日が見えた。飛行機の速度が速いので太陽はなかなか沈まなかった。当然の事だが不思議に思い感動した。沈まない太陽に永遠の青春、無限に続く希望を感じた。ニューヨーク上空に着いたらしい。しかしなかなか着陸しない。腕時計にコンパスを付けていた。コンパスの動きから飛行機が旋回しているのがわかった。機内アナウンスは「ジョンエフケネディーエアポート ビジー」を何度も繰り返していた。


        <チーズフォンデュ>
 
 インターラーケンからグリンデルワルトに行く電車にはユーレールパスが使えなかった。グリンデルワルトの坂道で日本人の女の子といっしょになった。2人でユースにチエックインしようとしたら男女ともベットがない。彼女は「困ったわねぇー、どうしよう」と泣きつくように言うが本当に困っているように見えない。ユースでなくても近くのホテルのツインに泊ればいい。ユースのレセプションの男は「しばらく、待てと」と言い、待っていると、2人とも泊れることになった。彼女は「よかったわねぇー、泊れて」と言い、僕はガッカリして、チエックインの手続きをした。
 
 彼女から夕食に誘われた。チーズフォンデュがスイスの名物だから食べようとレストランに入った。こんな高級そうなレストランは僕が入る店ではない。美しい女の子だったから、ボーとしてしまって判断力が鈍った。チーズフォンデュがテーブルに運ばれた。鍋にぐつぐつ煮えたチーズの中にパンの切れはしを浸して食べる単純な料理だった。まずくはなかったけど、おいしくもなかった。不愉快になり不平を洩らしていると、「でも、よかったわねぇー、ユースに泊れて」とにっこり笑い、僕の心を見透かして言う。彼女は美しくどんな男でも惹きつける自信を持つていた。イタリアでブランド品を買い、それについて話しているがブランド品に縁のない生活を送ってきた僕には彼女の話が全く理解できなかった。はじめて出会ったタイプで、かなり異質な感じがしたが、冷静に考えればこれが日本のごく普通の女の子だろう。いろいろ思わせぶりなことを言い、彼女とホテルのツインに泊まろうとも思ったが、すでにユースに宿泊費を払ってしまっている。食事が終り、会計を頼むと日本円で4000円以上した。パンを買い公園のベンチで食べながらヨーロッパを旅している僕には驚くべき金額だった。すっかり落ち込んでしまった。ユースに帰る暗い夜道で、彼女は「寒いわね」とつぶやいたが、思わぬ出費でショックを受けている僕には彼女の心が読めなかった。



       <灼熱のルート砂漠>
 
 真夏の8月、イランのパキスタン国境の町ザヘダンで、イスファハン行きのバスを探していた。なぜか、夜行便ばかりだった。やっと昼間の便を見つけ切符を買った。出発間際、バスの後部の荷物室に大きな氷の塊を積み込んでいる。理由はわからなかった。出発するとバスはすぐにルート砂漠に入った。冷房の設備は付いているが壊れている。非常に暑いのにバスの窓はぴったり閉められた。バスの窓から、流れる風景を見るのは旅の楽しみの1つだがカーテンがかかっている。車内の温度は40度は超えているだろう。僕は我慢できず窓を開けた。熱風が吹き込んできた。ビックリしてあわてて閉めた。前のほうから、車掌がガラスコップを渡し、水をそそぎ、乗客が黙々と飲んでいる。1つのコップで回し飲みだ。詰め込んだ氷が融けた冷水だ。生水は飲んではいけないのは旅行者の常識なので断った。自分が持ち込んだ水はすぐになくなった。途中バスの休憩時に店で飲み物を買えばいいと思い、勧められる水をを断り続け、必死に我慢した。ところがバス休憩がない。窓を開けて手を外に出してみた。異常な熱風が手に当たった。こんな土地に人が住めそうもない。このまま我慢していれば命にかかわる。仕方なく配られた生水を飲んだ。すでに手遅れで暑さにやられてしまい、日が落ち涼しくなった頃にはぐったりしてしまった。
 
 地獄の暑さがやわらぐと乗客たちは饒舌になった。日本人が珍しいのか、15歳ぐらいの車掌は僕の隣に来て、ペルシャ語(?)でしきりに話かけてくる。バテてしまっている僕は「I am sick」と頭をかかえて、静かにさせてもらおうとするが、かまわず、陽気に話しかけては、近くの乗客に何やら話し爆笑している。車掌や乗客が理解できない言葉で盛んに話かけてくる。意識がもうろうとしてきた。

      <イスタンブールの失敗>
 
 コペンハーゲンから入り、イスタンブールから帰る航空券でヨーロッパを旅した。イスタンブールに着きシンガポール航空に予約を入れに行くと1ヶ月以上先まで満席とのこと。空港に行き空席待ちをしたが、ダメだった。2度目の空港での空席待ちの際、「ファーストクラスが空いているから乗せてやる」と搭乗手続きのカウンターの係員が言った。しかし、上の人がやって来て「彼はファーストクラスに乗るような人間じゃない」と断られた。もっともなことだろう。薄汚れた服装の人間をファーストクラスに乗せては航空会社のイメージダウンになる。どうも当分日本に帰れそうもない。
 
 シングルの部屋でのんびり日本に帰れる日を待ち続けているわけにもいかず、安いドミトリーに移った。男女混合ドミトリーだった。かわいい日本人の女の子がいた。彼女は陸路エジプトに行くと言っていた。驚いたことにガイドブックは持っていない。ほとんどのバックパッカーはガイドブックを頼りに旅をしているというのに。2人きりで部屋にいるとき、わざとらしく彼女はドアのカギをかけずにシャワーを浴びた。ドアを開けてみたかったが理性で我慢をした。とうとう僕は我慢できなくなり、歯磨きを口実にシャワールームに突入したが、すでに彼女は服を身につけ髪をとかしている最中で、大失態を演じてしまった。しかし彼女とはその後どういうわけかすっかりうちとけた。
 
 毎日のようにシンガポール航空の事務所に行き、空席状況を尋ね、乗せてもらえないかと頼んでいたら、窓口の人の顔を覚えられ「また来たな」と苦笑いされるようになった。懸命な嘆願が功を奏し何とか割り込ませてもらった。


      <メコン川上り>
 
 ラオスに行こうとしたが、日本語のガイドブックがなかったので、英語版の「Lonely planet」を使った。ガイドブック推薦の町古都Luang phabangに行った。「Luang phabang」を何と発音するのかわからず、ラオス人に聞いても、発音が難しく聞き取れなかった。この町の寺は、タイの寺と区別がつかず、タイの寺を見飽きた僕はがっかりした。せっかくラオス奥地まで来たのに、つまらない町だった。
 
 200キロ離れたタイ国境の町Huay Xaiまでメコン川をボートでさか上ることにした。スピ-ドボートとスローボートの2種類あった。安いスローボートを選んだ。Xuay Xaiとのほぼ中間点の町Pekbengまでのチケットを買った。ラオス人にあらかじめ,Pekbengの発音を教えてもらったが、うろ覚えだったせいか通じず地図を見せてPekbengの位置を指さしチケットを買った。朝、ボートに乗り込んだ。Pekbengには夕方着くらしい。30人ぐらいでいっぱいになる屋根のある船だった。ドイツ人と乗り合わせた。彼は、1週間程前にボートが銃撃され、死者が出たことを教えてくれた。ドイツ人は「冒険だ」と笑っていた。僕も顔をひきつらせて笑った。
 
 ボートはゆっくりメコン川を上っていった。急流では歩くぐらいの遅さだった。昼食はラオス人が持ち込んでいた大きな桶に入ったもち米を、桶に手を入れ手づかみで食べた。ボートのチケット売り場の人は、夕方着くと言っていたのに、その日のうちにPekbengには着かず、メコン川沿いの小さな村に泊ることになった。高床式の民家にドイツ人と泊まらせてもらった。電気はなかった。水道もトイレもないらしい。民家の家族とは言葉が全く通じなかったのに、手振り身振りで結構長い時間談笑した。早朝、ドイツ人にたたき起こされボートが出発することを知った。僕が最後の乗客だった。ドイツ人に起こしてもらわなければ、置いていかれたかもしれない。Pekbengに到着したのは、昼だった。少数の女の子達は色鮮やかな民族衣装を着ていた。その日はPekbengに泊った。
 
 翌日はスローボートのあまりの遅さにうんざりして、迷わずスピードボートを選んだ。ヘルメットをかぶらされた。たまに岩に衝突する事故があるらしい。速い! せいぜい時速60キロ程だろうが、フランスで乗ったTGVよりスピード感がある。途中の村に頻繁に止まり、乗客が乗り降りする。ワラのようなものをどっさり積んだ船が停泊していた。何だろうと近づくと、ケシ坊主が見えた。このあたりはケシの栽培が盛んらしい。しかし麻薬を堂々と船で運んでいるとは・・・すぐにボートはHuay Xaiに着いた。タイ国境の町なのに、中国の雲南省の村の雰囲気だった。Huay Xaiを「フェイサイ」と発音するのを知ったのは数年後だった。


      <テグシガルパ>
 
 中米にはコスタリカから入国した.。ホンジュラスの首都テグシガルパまで日本人と全く会わなかった。テグシガルパでメキシコ入国のためのツーリストカードという入国許可書を取るために、メキシコ大使館に向って歩いていると、若い男が話しかけた。スペイン語のみで話すから、ほとんどわからないが、町を案内してやると言っているらしい。メキシコ大使館に行くところだからと断ったが、ついてきた。昨日はメキシコ大使館の場所がわからなかった。今日は彼のおかげで簡単に見つけることができた。ところが門が閉まっていた。

 東洋人が大使館から出てきた。彼は緑色の表紙のパスポートを持っていた。当時日本のパスポートの表紙は赤なので、日本人でないことはわかった

。ついてきたホンジュラス人と東洋人がスペイン語で話していた。突然、東洋人が日本語で「日本人ですか?」と僕に尋ねた。以外だったので「ええ・・・」と答えるとすぐに僕は「そのパスポート何ですか?」と聞き、見せてもらった。色は違うが「JAPAN」と書かれていて間違いなく日本のパスポートだった。彼は「仕事で来ているもので・・・」と言葉を濁した。仕事で外国に行くにせよ、日本のパスポートの表紙は赤ではないか?・・・ 何だかわからなかったが、日本人は、大使館は今日は終りであることを教えてくれた。
 
 ホンジュラス人はあいかわらず僕について来た。教会に行くとスペイン語と手振り身振りで説明した。僕は彼の言っていることを理解するのに疲れるばかりで、教会の厳かな雰囲気を味わう余裕はなかった。彼は最後にガイド料を要求したが、僕は言葉がわからない振りをした。実際スペイン語は全くと言っていい程わからなかった。彼はしつこく要求してきた。僕はポケットサイズの英語版スペイン語辞典を渡した。彼は辞書から単語を探し、指さしてガイド料を要求した。僕はスペイン語の単語を指さしながら拒否した。お互いに辞書を引くのにかなりの時間がかかるのである。時間をかけて辞書を引き、単語を見せながら喧嘩状態になった。必死になって辞書を引きながらの喧嘩はあまりにバカバカしく、また、おもしろくもあった。彼も同じ気はなかっただろうか。最初、彼は法外なガイド料を要求したが、妥当な額で許してくれた。


        <コパンガン>
 
 マレーシア東岸を旅する予定をしていたが、出発直前「地球の歩き方」を読んだら雨期だった。予定を変更し、タイの南の島コ・パンガンで過ごすことにした。欧米人ヒッピーに人気の島だ。青い海。白い砂浜。ヤシの林。絵に描いたような熱帯の南国の島だった。滞在しているのは98~99パーセント欧米人だった。1週間程は南国の楽園を満喫できたが、しだいに飽きて退屈してきた。泊まっていたところは「バンガロー」と名はついていたが、欧米人の表現では「Hut」。まさに小屋だった。
 
 ビーチで何時間もボーと海を眺めているのも、うんざりしてきた。ビーチは欧米人で賑わっていた。欧米人の女の子は大胆な姿で肌を焼いていたが、あまり興味がわかなかった。日本人の女の子を探しても、めったにいないが、1人か2人のトップレスかTバックの日本人がいた。大胆な姿でビーチにいる日本人の女の子はたいてい欧米人といっしょだった。Tバックの日本人に近寄り座って見ていると、お尻がよく見えるように寝そべってくれてサービスがいい。立ち上がってサロンを巻いたり、スカートを身につける時はたいてい僕にお尻をむけた。
  
 トップレスやTバックの日本人に「日本人?」と声をかけると、彼女たちはにっこり微笑み「そうだよ」と答えた。普通海外で日本人の女の子に声をかけてもこういう微笑み方はしない。僕は女の子の身体を見るより、彼女達の嬉しそうな微笑みを見るほうが楽しかった。ブラジャーをつけている女の子と話ていても「暑いわね」とはずしたりして相当開放的な雰囲気だった。
 
 中国系欧米人は、さらに開放的で大胆だった。Tバック姿の女の子に「Are you chinese?」と声をかけると、だいたい「Yes」と言って、「ハハハ」と声を上げててまで笑う。そして話をしていると、僕の目の前で、後ろ向いて寝そべり、露骨にお尻を見せ付けてくれた。至近距離で中国系欧米人を見ていたら、彼女は僕の方に前を向いて着替え出した。「サービス悪いな」と思っていたら、彼女は真っ裸になった。そのビーチはヌーディストビーチではないのである。

 ビーチで日本人の女の子の身体を、露骨に眺めながら、「バンガローに閉じこもっていると、気が滅入るからビーチにいるんだ」と嘘を言うと、彼女は「山を越えてたところにヌーディストビーチがあるわよ」と砂浜に地図を書いた。さっそく行ったが欧米人ばかりでつまらなかった。僕は白人の女の子の裸体には、あまり興味ないのだ。
 
 この島では満月の夜フルムーンパーティーが開かれる。その前日には、普段の数倍の欧米人でビーチは溢れていた。フルムーンパーティーで欧米人たちが踊り狂っていた。「バン、バン、バン、バン」という単調なリズムが何時間も続けて鳴り響き、単調なリズムに乗って欧米人たちが楽しそうな顔をして踊っていた。僕は、この単調なリズムが全く楽しくなくむしろ不愉快だった。欧米人が飛び跳ね楽しそうに踊っているのをあきれて傍観していた。翌日、単調なリズムの不可解さを日本人に話すと、「ドラッグをやっていると、あの単調なリズムが最高にいいんだって」と教えてくれた。
 
 夜、ビーチ沿いの道端で、露天でアクセサリーを売っている日本人の女の子がいた。日本でも露天をやっているという。彼女は「売れない」とぼやいていた。値段を聞いてみると日本並に高い。これでは物価の安いタイでいくら欧米人相手でも売れそうもない。彼女は「毎日何をしているの?」と聞くので、「ビーチで女の子の裸を見ている」と答えると「それ、おじさんじゃない!」と笑っていた。実際おじさんなんだけど・・・。別れ際、彼女は「楽しんでね」と声をかけた。僕は一瞬「え?」と戸惑った。旅先で出会った日本人バックパッカーとの別れの挨拶はたいてい「気をつけて」だった。
 
 コパンガンは旅を楽しむ場所なのだろう。

 * なお今のコパンガンは、観光化が進み、日本人のTバックの女の子はにいないらしい。ヌーディストビーチも消滅した。いたとしても、中年になった僕が女の子に声をかけたら、嫌な顔をされるだろう。


     <ブラショフ>
 
 ルーマニアのブラショフの鉄道駅に降りた。プライベートルームの客引きが寄ってきたが、無視して「地球の歩き方」に載っている最も安い宿にむかった。記載されている料金の倍ぐらいし、途方にくれた。東ヨーロッパは物価が安い割には、地域によってはホテル代が妙に高く、結構大きい町なのなのにホテルが数件しかないところがあった。しかたなく、ついてきたおばさんの家に泊まることにした。1泊20ドルだった。ルーマニアの物価から考えて高すぎる。おばさんは、娘が札幌オリンピックで銀メダルを取ったことを自慢していた。しばらく歩き着いたところは薄暗い怪しいそうなマンションだった。たくさんのメダルやトロフィーが飾ってある部屋に案内され、銀メダルを獲得した自分の娘を紹介している日本の新聞の切り抜きを見せてくれた。
 
 キッチンで夕食を作ってくれた。目玉焼きと食パン。食パンの上に白いこってりとしたバターのようなものを分厚くぬりつけた。これが大変にまずい。食べていると「遠慮うせずにもっと食べて」という感じでさらにたっぷり塗りつけた。おばさんは「おいしか?」と尋ねた。「まずい!」とは言えず、「おいしい」と答えた。おばさんには好物だろうが、僕の口には合わず食べるのに苦労した。
 
 翌朝、町に散策に出かけた。古い町並が自然のまま残っている。西ヨーロッパの町並みが、見た目よく整備されているのに対し、手つかずの素朴で落ち着いた雰囲気の町だった。西ヨーロッパの観光化されたカラフルに装飾された中世の町並を急いで見て回った後なので、僕には新鮮だった。近くの山に登るとブラショフの町のパノラマが一望できるというので、登ることにした。ケーブルカーがあったが歩いて登った。地味な町並み。くすんだ色の家々がびっしりと立ち並んでいた。


      <ベトナムの安宿>
 
 ベトナムにはハノイから入国した。安宿街の安宿に泊ったが、ハノイの安宿は接客マナーがよかった。朝、宿の従業員と顔を合わせれば「Good morning」と笑顔で挨拶をするし、外から帰れば、やはり笑顔で声をかけてくる。東南アジアの安宿でこんな丁寧な接待を受けた経験はないので戸惑った。

 ヨーロッパを旅した時、ドイツのどこの安宿でも非常に丁寧に挨拶され恐縮したが、ハノイの安宿もドイツの安宿並みの丁寧さだった。
 
 だいたい、東南アジアの安宿の従業員は朝、顔をあわせても、そ知らぬ顔だ。丁寧に挨拶をされれば無愛想にしているわけにいかず、こちらも挨拶をせねばならず、疲れた。あまりに窮屈だったので、宿を移ろうと安宿を探したが、近所にそこより安い宿はなかった。しかたなく、“憂うつな”安宿にしばらく滞在した。
 
 ハノイからフエに南下した。やはり、安宿の従業員のマナーはよく、まるで一流ホテルの従業員のように愛想がよく、紳士的な態度で僕に接した。6ドル程度の安宿の従業員が、何でこんなに紳士的なのか疑問だ。フエで散髪したが、散髪屋のマナーも良かった。
 
 首都ホーチミンに着き、安宿街ファングーラオ通りで安宿を探したが、どこも高かった(最近は安い宿もあるらしい)。闇宿に泊ることにした。カメラ屋をやっている中国系ベトナム人の家の1部屋を貸してもらった。家の人は朝僕と顔をあわせても無関心だった。長期滞在したが、“無愛想”で有名な漢民族との暮らしは心地よかった。

      <トレビの泉>
 
 ギリシャから船でアドリア海を渡り、イタリアのプリンディジに着いた。すぐに夜行列車でローマを目ざした。ギリシャの都市が近代化されたビルがゴチャゴチャ立ち並び、古い町並みはほとんど残っていなかったが、ローマには近代的ビルはなく中世の重厚な建築群が保存されていた。一つ一つの建造物はそれぞれ個性を競っているかのようだった。特徴ある建築物が何百と立ち並んでいた。「ローマは1日にして成らず」という言葉を実感した。歴史の蓄積に圧倒されながら、好奇心に憑かれてローマの建築群を朝から夜まで3日間ひたすら歩き回って見続けた。いくら見ても見飽きなかった。
 
 その約1ヶ月後、ニューヨークに行った。エンパイアステートビルからのマンハッタンの超高層ビル群は迫力があったがつまらない光景にしか見えなかった。長い歴史のなかで洗練され歴史が刻まれているローマの建築群に比べると、軽薄に見えた。
 
 数年後のヨーロッパ旅行の際、再びローマに立ち寄った。やはり以前訪れたときと同じように歩き回った。数年前の感動はなかった。ローマの建築群は同じだった。僕の心が変化した。歩き回っていたら、トレビの泉が目の前にあらわれた。あいかわらず大勢の観光客で賑わっていた。はじめてトレビの泉に来たとき、肩越しに泉にコインを投げ入れたわけでもないのに再びここに辿り着いた。

 (注、トレビの泉に肩越しにコインを投げ入れると、再びトレビの泉に来ることができるという伝説があると思っていたが、これは間違いで、再びローマに来ることができるという伝説だった)



のトラブ





     <インドのカルカッタのトモダチ>
 
 カルカッタのサダルストリートという安宿街に滞在してい時、サダルストリートの露天で、コーヒーを飲みながらくつろいでいた。そこに胡散臭そうな男がやって来て、しつこく、「ほしいミヤゲものはないか?」とか「女を紹介してやる」とか「麻薬はいらないか?」とか言ってきた。僕は「NO! NO! NO! NO! NO! NO! NO!NO!NO!NO!NO!NO!」と言い続けたが離れない。だいたいインド人は、しつこくなかなか離れないのだ。「NO!」などと言うと、むしろしつこくつきまとわれる、無視するのがいい。あまりにしつこいので彼に「飲み物をおごってやるから、向こうに行ってくれ」と言った。ラッシーをおごってやった。彼は行ってしまった。やっとくつろげた。

 翌日から彼は「ラッシーをおごってくれたトモダチだから、おまえの欲しいものは何でも安く売ってやる」と前にもましてしつこく僕につきまとった。彼のおかげでカルカッタ滞在が非常に不愉快なものになった。


     <ケニアのナイロビのトモダチ>
 
 バンコクからナイロビに着いた。さっそくウキウキ気分で下町を散策した。なんだか雰囲気がおかしい。男達の危ない視線がバンバン僕に来る。腹がへったので安食堂に入った。
 
 食事をしていると、「やあ、トモダチ」と言って、僕のテーブルの前に男が座った。彼は食事を注文して、急いで食べた。「トモダチ、俺のぶんも払ってくれよ」と言い、とっとと食堂から出て行った。店員に「彼のぶんは払わない」と抗議したが、結局彼のぶんも払わされてしまった。

 町を歩いても、欧米人の姿は滅多に見なかった。ところが高級ホテルのレストランをのぞいてみると欧米人だらけだった。レストランでコーヒーでも飲むかと入ろうとすると、「満席だから」と入れてくれなかった。席は空いてるじゃないか。僕が有色人種だから、入れてくれなかったようだ。ほかの国では、こんな経験をしたことがなかったのに、人種差別!

 後で聞いた話では、当時のナイロビの治安は悪く、旅行者が下町を歩ける状況ではなかったらしい。この程度の軽微な被害で良かった。


     <インドのカジュラホのトモダチ>
 
 仏教遺跡で有名なカジュラホという観光地に行った。多くの男達が近づいてくる。「友達になりたいだけ」と言うがカネ目当てだろう。広場でくつろいでいる僕のことを、彼らは「Japanese」と言う。僕は気分が悪いので「僕は、Nipponだ」と言った。彼らはNipponという言葉を知らないらしく、多くのインド人が集まってきた。ここには日本人が多く来るのに、Nipponという国を知らないとは・・・ 僕はNIPPONと書いてある1万円札を見せた。彼らはやっと僕がNippon人と信用してくれた。Nippon人に会うのははじめてらしい。「Nipponはどこにあるんだ?」と聞いた。「中国の下にある」と答えた。彼らは不思議そうな顔をしていた。

 遺跡に行くと、長時間、男が親切に遺跡を案内してくれた。最後に「おまえは俺のトモダチだから欲しいものは安く買ってやる。おまえの欲しいものは何だ?」と言った。僕は「日本人(Japanese)の女の子が欲しい」と言った。彼は、「買ってやる」と言った。村を歩いていると、日本人の女の子がいた。彼に「彼女も買えるか?」と聞くと「買える」。嘘をつけ!僕は冗談で「日本人の女の子を買う」と言うと、「はじめに300ドル払え」と言った。僕は「連れて来たら、300ドル払う」と言った。彼は「日本人の女の子は遠くはなれたところに住んでいる。今払え」と言った。300ドル払って、待っていたら、馬鹿だろうな。

 その後、広場を歩いていたら、インド人がNipponの意味を知ったらしく、日本人達に僕のことを「あいつは嘘つきだ!」と言った。嘘つきで有名なインド人から、「嘘つき」と言われたらお終いだ。日本人達は僕の顔を見て声をあげて笑っていた。


     <中国の広州のバイクタクシー>
 
 広州の空港から広州駅に行こうとしていた。空港で客を待っているタクシーは乗るとボラれるかもしれない。だいたい貧乏旅行の僕にはタクシーは贅沢だ。空港を出て100メートルほど歩いていると、バイクタクシーの運転手が、しつこく「乗れ!乗れ!」と誘って来た。20元(約300円)だと言う。相場だろうと思い乗ることにした。彼は空港から100メートルか200メートルほどしか離れていないバス停に行き、そこで僕をおろした。「○○番のバスに乗れ」と言った。僕は怒って、10元にまけさせた。それでも中国の物価からすれば、法外に高かった。

 またこんなこともあった。中国のある町で、ある町に行こうとしバスターミナルでバスを待っていると、三輪車の「男が○○に行くバスはここからは出ない、俺が連れて行ってやる」。三輪車に乗ると、同じバスターミナルの、数十メートル離れた、バス停に連れて行かされた。初乗り料金15元を払えという、僕は苦情を言ったが、結局、15元払わされた。

 またこんなこともあった。中国の廈門に行った時、郊外バスターミナルに着いた。男が「廈門のツアーに参加しろ」としつこく、血相を変えてまでして、わからない中国語で言い寄ってきた。僕は市街地に向かうため、タクシーに乗った。なんと男も乗り込んできた。市街地に着き、僕が「タクシー代を割り勘にしろ」と言っても、彼は払おうとしない。タクシーから降りても、男は「ツアーに参加しろ」、としつこかった。僕は非常に不愉快になりもちろん参加しなかった。


     <インドのデリーのタクシー>
 
 デリーの空港から、ガイドブックお薦めの市内の安宿に行くことにした。デリーの空港では料金は始めに払う制度になっていた。タクシーに乗りこみ指定の宿を言い、市内に向かった。宿の前にとまった。指定の宿と名前が違う。一応入ってみると、かなり高い料金を言われた。振り向いて出ようとすると、どんどん値引きしてきた。うさん臭いから泊まらなかった。

 おそらくこの宿に泊れば、宿からタクシーの運転手に紹介料が出るのだろう。

 タクシーの運転手に「指定した宿に行け」と行ったが、「俺はそんな宿は知らない」と言い連れて行ってくれなかった。空港で料金を払っているので、「連れて行ってくれないと、タクシー代は払わない」とは言えなかった。しかたなくガイドブックの地図をたよりに、お薦めの安宿まで歩いて行った。


     <カンボジアのプノンペンのバイクタクシー>
 
 プノンペンの空港に多くのバイクタクシーがたむろしていた。僕はバックパッカーに人気の安宿キャピトルホテルに行こうとしていた。「キャピトルホテルまで1ドルだ」と言うバイクタクシーに乗った。1ドルが相場だろう。バイクの後ろに乗せてもらって走りだすと、歩くようなスピードで、僕のほうを時々振り向き、いろいろ話し掛けてきた。「キャピトルホテルは100ドルだ。俺の知っているホテルは、15ドルだ。俺の知っているホテルに行く」と言い張った。僕は「キャピトルホテルに行け!」と言い張った。それでも、彼は「キャピトルホテルは100ドルだ!俺の知っているホテルに行く」と言い張った。気に入らないので、飛び降りた。500メートルも走っていないだろう。しかし、僕は1ドル払った。「もう1ドル出せ」と彼は言ったが、断ると、「おまえをショットガンで殺す」と言った。僕は地図を頼りに1時間ぐらい歩き、キャピトルホテルにチェックインした。シングル2ドルだった。

 ところで、カンボジアでは数十ドルを払えば、気にいらないヤツを殺せるという噂を聞いた。警察がいい加減だから捕まらないそうだ。この噂は本当だろうか?・・・


     <ベトナムのハノイのタクシー>
 
 ハノイの空港から市内に向かおうとしていた。カイドブックには、タクシー代5ドルと書いてあった。白タクが乗れと言ってきた。最初は、法外な料金を言ったが、なんとか5ドルに負けさせた。タクシーに乗りこみ、しばらく待たされた。欧米人が乗りこんできた。普通タクシーは1人の客で行ってくれるものだのに・・・

 欧米人に「いくらだ?」と尋ねると彼は「25ドル」と言った。日本以上に高いではないか?市内に向かった。はじめに欧米人が高級そうなホテルで降りた。僕はホテルでなさそうな所でおろされた。「弟が入院しているから、見舞ってくれ」と言った。病院に連れて行かれたのだ。彼の弟がいる病室に入った。彼は「僕のセカンドバックの中を見せてくれ」と言った。開けて見せると、「カメラを弟にお見舞いにやれ」と言う。冗談じゃない!彼は、僕が向かおうとしている安宿街はここから近いから、自分で行けと言った。しかたがないので、地図を頼りに歩いて行った。


     <意地悪なスチュワーデス>
 
 ニューヨークからコスタリカに飛ぼうとしたら、飛行機がエンジントラブルで欠航だった。苦情を言っていると、今日はヒューストンまで行けと言われ、ホテル券と10ドルの食事券をもらい、ヒューストンに飛んだ。ホテルはホリデーインだった。貧乏旅行の僕はこんなまともなホテルに泊った経験がなかった。それに10ドル(当時のレートで1400円)の食事券、ニューヨークで日進のカップヌードルや魚の缶詰を食べていた僕には、非常に贅沢に感じられた。

 ヒューストンからコスタリカのサンホセに向かう飛行機に乗った。スチュワーデスが飲み物の注文を聞きに来た。僕は「コーラ」と言った。彼女はビールを僕に渡した。数時間後彼女がまた飲み物の注文を聞きに来た。僕は「ビール」と言った。彼女はコーラを手渡した。わざと間違えれいるとしか思えなかった。
 
 何年か後、この話を旅人にすると、最後に「プリーズ」を言わなかった僕に問題があったようだ。だいたい欧米人はマナーが大変いい。しかし、こちらもマナーをよくしないと意地悪されるらしい。

 アジアの路線では「プリーズ」を最後に言わなくても、意地悪されないのに・・・


     <恐怖のマニラの夜>
 
 マニラの空港で日本人の女性が話しかけてきた。彼女は乗り継ぎの都合マニラに一泊しないといけないらしい。「恐いからついて来て」と言う。彼女といっしょにタクシーに乗り市内に向かった。彼女がホテル探しをした。見つけたホテルは一泊2000円以上もする中級ホテルだった。割り勘にした。マニラには一泊300円程の安宿もあるんだぞ!貧乏旅行の僕には痛かった。

 彼女は、「外に出るのが恐いから食べ物を買ってきて」と言う。相当マニラが恐いらしい。そうこうしているうちに、彼女は、ドアの隙間をタオルで詰め、線香を焚き始めた。熱心な仏教徒かと思った。彼女はコーラの空き缶の上に正露丸のようなものをのせ、火をつけ吸い出した。マリファナだった。線香を焚いたのはマリファナを吸っているのが見つかっても、線香と言い張るためだろう。彼女は僕にも「吸いなさいよ」と言った。「恐い?」と聞くので、吸ってみた。タバコも吸えない僕は咳き込んでしまった。フィリピンではマリファナ所持が、見つかったら重罰だ。こんなところを警察に見つかったら大変なことになる。そうこうしているうちに、正露丸のようなマリファナが一つなくなった。彼女は血相を変えて探し回っていた。僕が探して見つけた。彼女は安心した。本当に恐いマニラの夜であった。


     <かわいい顔の悪徳両替商>
 
 ラオスに行くため、ラオス国境近くの町中国のシーサンバンナに行った。シーサンバンナという言葉の響きがいいし、数年前来た時、いい雰囲気だったので、長期滞在するつもりで、かなりの額を両替した。以前この町に来た時とはすっかり町の様相が変わり、町は近代化され、また著しく観光化され、つまらない町に変貌していた。すぐに国境に行った。

 中国国境で余った中国のお金(日本円で2万円位)をラオスのお金に替えなければならなかった。かわいい女の子が両替をもちかけてきた。両替してもらった。ところがラオスのお金の札束が、10センチか20センチか忘れたけど、すごい量の札束だった。とても数える気がしない。ラオスの宿に着いて落ちついて、数えてみた。高額紙幣の中に小額紙幣がはさんであった。日本円で4、5千円足りない。かわいい顔をして騙しやがって・・・


     <困った中国の鉄道>
 
 中国の鉄道駅で切符を買い、列車の到着時間を待っていた。到着時間近くに改札に行くと、僕の乗る列車はすでに到着して、すでに出発していたのだ。決められた時間より、早く来て早く出発したのだ。列車が遅れて到着するというのはよくあるが、こんな経験ははじめてだ。

 しかたなく、次に来た別方面の列車に乗った。駅員は僕の切符を見ず、乗せてくれた。全く中国の鉄道はいい加減だ。行く予定でなかった町で降りた。僕の旅もいい加減だ。おかげで旅の予定が狂ってしまった。

 その後、中国に行った時、また早く来て、早く出発するのではと思い、改札に早めに言って、列車を待っていたら、やはり予定時刻より早く来て、早く出発したことがある。中国ではよくあることらしい。

 なおこれは昔の話で最近はどうか知らない。


     <日本人の女の子に話しかけたら失礼?>
 
 タイの南の島にコパンガンに長期滞在していた。ヒーピーが集まることで有名な島だった。Tバック一枚の日本人の女の子がビーチにいた。欧米人と一緒だった。僕が彼女に話かけしゃべっていると、欧米人が彼女に早口の英語で何か言っていた。彼女と喧嘩しているような感じだった。欧米人は僕に日本語で「失礼でしょ!これは僕の彼女でしょ!話しちゃダメ!」と大変怒っていた。

 なるほど日本のビーチで恋人が一緒にいる時、見知らぬ男が、女の子には話しかけれないだろう。しかし海外で欧米人と一緒の日本人の女の子に話し掛けても、別に失礼じゃないのでは・・・欧米人から女の子を奪おうとしたつもりはないし・・・

 なお今のコパンガンは観光化が進み、ビーチにはTバックやトップレス姿の女の子はほとんどいない。残念。


     <バンコクののおばさん>
 
 バンコクに滞在している時、僕のいる安宿付近で50歳ぐらいのおばさんが、「若い女の子を紹介してあげる。マッサージをしてあげる」」と時々しつこく近寄ってきた。「マッサージをしてあげる」と言葉で言うだけでなく、実際、身体中を触られる。「僕は女は嫌いだ。男が好きだ」とおばさんを避けようとすると、おばさんはスカートをまくりあげた。パンティーの前がふくらんでいた。おばさんはゲイだった。

 だいたいタイはゲイに寛容で多くゲイがいる。声をかけてくる女はたいていゲイだ。

 チェンマイのゲイバーに行った時、どう見ても女の子に見える子がいた、ゲイバーに本物の女の子がいるはずはないだろう。タイではどうみても女の子に見える女の子に声をかけられても注意しなければ・・・


     <朝早過ぎる!>
 
 グアテマラを旅した時、英語のガイドブックを使った。秘境ぽいところを進んで行った。ある町からある町に行くのにバスは1日1本しかないと書いてあった。”early morning”の午前2時出発だと書いてあった。「朝早い」じゃなくて「深夜」じゃないか!

 僕は安宿に一応チェックインした。不愉快なことは続くもので、グアテマラは赤道に近いが、その町は高度が高いので夜は気温が10度位になっていたと思う。僕はシャワーを浴びようとした。電気シャワーが壊れていたて冷たい水しか出ない。頑張って、シャワーを浴びた。辛かった。

 バス停に午前1時半位に待っていたらバスが来た。この町が始発らしい。終点までは3時間程だった。なんでこんな深夜にしかバスがないんだ!


     <中国の公安>
 
 中国では原則として外国人が泊まれる宿が決まっている。合肥という町に行った時、本来外国人が泊まれない安宿に泊まった。夜、数名の公安がやって来て、紙に「危険」と書き、「宿を移れ」と言う。バックパックから荷物の多くは、外に出しているし、洗濯した服もかけてあった。荷造りをするのが大変なので、「今日1日だけ泊まらせてくれ」と頼んだ。しかし、公安は頑強に「宿を移れ!」と言う。急いで荷造りをした。公安のパトカーに乗せられ、外国人が泊まれる少し高級そうなホテルに強制的に移送された。パトカーに乗ったのは、はじめての経験だった。
 
 翌日、宿にいたら。「ドアを開けろ!」という声がして、その宿の従業員がカギを開け、4、5人の公安が部屋に入ってきた。「女はいないな!」と言うと、すぐ帰って行った。中国では売春は一応厳禁ということになっている。しかし、中国程、宿に売春婦が多くいる国は知らない。ところで公安は、ノックもせずに突然部屋に入ってくるとは、プライバシーの侵害!


     <ケニア国境の村のお婆さん>
 
 ケニアからタンザニアに行く途中、ケニア側の国境の村に立ち寄った。みんな民族衣装を着ていて、いい雰囲気だった。

 そこで、お婆さんが、写真を取れとしつこい。写真を取ればカネを要求されると思い取らなかった。10人位のおばさん達が輪になって地べたに座っていた。写真を取ろうとすると、お婆さんが、すかさず入ってきた。写真を取り終えると、お婆さんが「カネを出せ」と言ってきた。僕は拒否した。お婆さんは、僕のカメラをつかんで離さない。お婆さんは力いっぱい握っていた。数分の格闘のすえ、やっとカメラから手を離させた。

 力のありそうな男を無断で写真を取っても、怒られるぐらいで、カメラを取ろうとはしない。弱そうな老人はカメラや腕を握って離そうとしないことがたまにある。

 しかし素朴な村にも、旅行者からカネを狙うお婆さんがいるものである。


     <中国の杭州の太ったおばさん>
 
 中国屈指の観光地杭州の西湖の岸にいると、40歳位の太ったおばさんが「若い女の子のいるところに連れて行ってやる」としつこい。どんなところか見に行くことにした。

 三輪車に乗せられ映画館のようなところに連れて行かれた。おばさんは三輪車のカネを払えと言う。しかたなく払うと、おばさんはお釣りを取ってしまった。これはヤバいと思った。

 おばさんは僕の腕を握り、強引にカラオケの設備のあるところに連れて行かれた。おばさんと一緒に個室に入り、ソファーに僕とおばさんが並んで座った。太ったおばさんは「私の胸を触れ」と僕の手をおばさんの胸に持っていった。全く不快だった。ワイングラスが10杯位運ばれてきた。これはかなりヤバいと思い、すぐに走って逃げた。危うく難を逃れた。

 逃げそこなえば、法外なワイン代を支払わされることになっただろう。


     <犬肉でホットドッグ作るな!>
 
 中国の街頭でよく「熱狗」というソーセージを見かけた。狗は犬の意味。おそらくホットドックの訳だろうと思った。ところで中国には犬を食べる習慣があり、町を歩いていても、滅多に野良犬を見かけない。食べてしまうのだろう。

 中国に10年以上住んでいる日本人に、熱狗ことを聞くと「そうそう、ホットドックの訳だよ。安心して食べて言いよ」と言っていた。しかし、スーパーマーケットでパッケージされた熱狗の成分表示には、狗肉と書かれていた。僕的には、犬肉でホットドッグを作って欲しくないんだけど・・・


     <中国の石林のサニ族には参った>
 
 少数民族が多い雲南省に、石林という観光地がある。石が林のようにそびえている景勝地だ。石林に着き、バスから降りるとすぐに、5、6人のサニ族の刺繍売りの女性達につきまとわれた。彼女達は日本語ペラペラだった。ほとんど中国語訛りがない。日本人バックパッカー達も、彼女達が訛りのない日本語を話すのに不思議がっていた。

 サニ族の女性達がついてきたおかげで、僕は外人と見破られ、石林の外国人料金を払わされた。彼女達は入場料無しで入った。はじめは簡単に振り切れると思ったが、そうは行かなかった。石林の道が迷路のようになっていて、僕がある方向に行こうとすると「そちは行き止まりだよ」と言う。無視して進むと本当に行き止まりだった。彼女らが、にこやかに日本語で道案内をしてくれた。

 最後に、「刺繍を買って」と言う。あれだけ親切にしてもらったのに買わないのは悪いと思い、高い値で言っていた刺繍を、日本円で3000円位に安くしてもらって買った。女の子は大変喜んでいた。かなり儲かったんだろう。僕は刺繍に全く興味がなかったのに・・・女の子は貝の化石を持っていた。それに興味を示すと彼女はただでくれた。日本に帰り、刺繍より貝の化石のほうを大切にしている。


     <魚と蛇とは違うんだよ!>
 
 中国の広州で中級レストランに入った。蛇の刺身のようなものが並んでいた。熱を通して食べるんだろう。うろこを見るかぎりどう見ても蛇だ。試しに、ウェーイトレスに「これは何か?」と尋ねた。外人が多く来る店のせいか、彼女は英語で「Fishです」と答えた。蛇を食べる習慣のある広州では、蛇も魚も同類に扱っているのだろうか?・・・ カンボジアでも同じような体験をしたが・・・

 日本人の僕から見れば、魚と蛇はかなり違うんだよ! 蛇を魚と言って、外国人に食べさすのはやめてもらえないだろうか・・・


     <グレートブリテン?>
 
 アムステルダムからロンドン行のバスのチケットを旅行代理店に買いに行った。「ロンドンまでのバスのチケットが欲しいのですが・・・」。店員の女の子は「ロンドン?」と聞き返した。「ロンドンです」ともう一度言った。しかし、彼女には通じない。僕の発音が悪いのかと思った。「イングランドの首都ロンドンです」「イングランド?・・・ グレートブリテンのことですか?」「そうです。そうです」。やっとロンドン行きのバスチケットが買えた。しかしオランダでは、イギリスのことをグレートブリテンなどと大層な言い方をするのか?


     <大混雑の中国の列車>
 
 ある駅のプラットホームで、僕の乗る列車を待っていた。列車が到着した。列車の中は人でぎっしり。中国人は必死に競って乗ろうとしていた。窓からも荷物を投げ入れ、乗りこもうとしている人も大勢いた。サル達が、エサを我先に取ろうとしている光景のようだった。僕は唖然として、その凄まじい光景を眺めていた。
 
 そうこうしているうちに、乗務員が扉を閉めてしまった。僕は中国人料金の2倍の外国人料金で切符を買っている。これではたまらないと思い、乗務員に日本のパスポートを見せた。すると乗務員は僕だけ列車内に入れてくれた。

 乗務員は、当時、飛行機並に高かったソフトスリーパー(1等寝台)に案内してくれた。貧乏旅行の僕には、有り難迷惑だった。

 最近の中国は寝台バスの普及で、列車はそんな混んでないらしい。


     <1990年バンコクの大渋滞>
 
 1990年冬はじめてバンコクに行った。バンコクの渋滞は有名だった。当時バンコクには10日程しか滞在しなかったので、あまり観察できなかったが・・・バスに乗っていたら、渋滞に巻き込まれ、ほとんど動かなくなり、嫌気がさして、降りて目的地まで歩いたことが何度かあった。

 大渋滞にもかかわらず、車の横をバイクや自転車で走っている人を見なかった。非常に疑問に思った。百貨店に行くと自転車が売られていた。よく見ると、固定式自転車のトレーニングマシーンだった。こんなものでトレーニングするのなら、町を自転車で走ればいいと思った。しかし自転車屋を見なかった。これでは、自転車に乗ろうにも、自転車に乗れない。当時のバンコクは自転車に乗ってはいけないという法律があったのだろうか?・・・

 最近ではバンコクはバイクもかなり増え、渋滞の隙間をぬって走っている。自転車に乗っている人も稀にいる。


     <あ!あ!悲惨!中国の黄山・・・>
 
 黄山に登山に行った。宿でアメリカ人と中国人と知り合い、3人で登ることになった。アメリカ人は日本で英語の先生をしていたから、日本語がペラペラ。しかし中国語は全くできない。中国人は片言の英語はできるが、日本語は全くできない。僕は多少英語ができるが、中国語はほとんどできない。アメリカ人と僕は無口で自分から滅多に話さなかったが、中国人は陽気で登山中よく話していた。ところが僕には彼の言っている話がよくわからなかった。アメリカ人に通訳はほとんどできなかった。

 登山も肉体的に疲れたが、陽気な中国人との会話も精神的に疲れた。

 登山を終え、翌日バックパックを背負って、宿を後にして歩いていると、前から、棒の両端に桶をつらしたおじさんが歩いてきた。おじさんとすれ違いざま、軽ワゴン車が僕に向かって急接近した。おじさんは驚いたらしく、よろめいた。その瞬間、桶の中の液体が僕にかかった。においを嗅いでみると、非常に臭い!!! 人糞だ! 何て運が悪いのだろう。

 ちなみに急接近して来た軽ワゴン車は登山者を、黄山登山の起点となる町・屯渓に連れて帰るミニバスだった。僕を客だと思い急接近したのだ。僕も屯渓に帰るつもりだったが、あまりの悲惨な出来事に腹が立ち、そのミニバスには乗らなかった。


     <タクシー代がこんなに高いのか!>
 
 トルコからギリシャに行くのに、普通は鉄道で行くらしかったが、僕はバスで行くことにした。国境まで8キロの町に行った。この町から国境に行くバスはないとのこと。しかたなく歩いて行くことにした。国境に至る道路には、車は滅多に走っていなかった。やっと国境に着いた。

 ギリシャに行くには、橋を渡らなければならない。この橋は、歩いて渡るのが禁止されていた。乗せてくれる車も来ない。やっとタクシーが来た。相乗りで橋を渡るのに日本円で500円位だった。橋はかなり長いのだろうと思った。橋を渡ってみると、100メートルか200メートルの距離だった。いくらギリシャの物価が高いからと言っても、相乗りで500円は高すぎる!

 国境から30キロぐらい離れたアレクサンドポリスに行くのにタクシーの相乗りで3000円ぐらいした。トルコの物価の安さになれていた僕には驚くべき高さだった。国境からアレクサンドポリスに行くバスはないという。しかたなく、また歩いて行くことにした。しばらく歩いているとバスが来た。もしアレクサンドポリスまで歩いて行っていたら、着くのは深夜になっていただろう。


     <日本人の女の子は自殺したのか?・・・>
 
 バンコクのカオサンはバックパッカー向けの安宿が100件位あるのではないだろうか?バックパッカーの多さは世界一だろう。

 カオサンで前の旅で知り合った女の子と再会した。彼女は付き合っていた黒人の男が浮気したと落ち込んでいた。彼女は「私のホテルに来て」と言った。僕の泊まっている安宿とは比べものにならない位豪華な部屋だった。彼女は部屋にある電話で、黒人の彼に電話で話していた。喧嘩しているような口調だった。早口の英語でしゃべっていたから、僕にはほとんど理解できなかった。

 深夜の12時頃、彼女は「彼のアパートに行くからついてきて」と言った。タクシーで彼のアパートに行った。そこで彼女と彼は喧嘩していた。彼女は彼に「奢ってやった300バーツ(当時のレートで日本円で約1200円)返せ!」と怒っていた。その反面「私と結婚して」と懇願していた。喧嘩を仲裁していると、彼女が「もう帰って」と言った。深夜の2時頃だった。

 僕のいる場所がわからないのでタクシーでカオサンに帰った。僕が泊まっている安宿ではなく、彼女の豪華な部屋に行った。ホテルの従業員は、僕が彼女の友達と知っているせいか部屋に入れてくれた。

 朝起きると彼女が帰っていた。彼女は「私、もう生きる力はないわ、ヘロインが手に入る南の島に行って、ヘロインで自殺するわ」と言った。僕はビックリして、僕が泊まっている安宿に帰り、同宿の日本人に「自殺すると言っている女の子がいるから説得してくれ」と頼んだ。彼を彼女の部屋に連れて行った。彼は説得してくれた。それでも彼女は「自殺する」と言っていた。僕は彼に「彼女、大丈夫かな?」と言うと、「大丈夫でしょう」と言っていた。

全く世話のやける女の子だった。


     <ブラックコーヒー>
 
 インドのバラナシで、ガイドブックお薦めの安宿に長期滞在していた。数人の日本人が長期滞在していた。そのうちの1人の男とよからぬ関係となってしまった。

 ある日、食堂でコーヒを注文し待っていると、彼が、彼の友達らしき男と食堂に入ってきて、僕と同じテーブルの斜め前にすわった。コーヒーがきた。ミルクもいっしょについていた。僕はブラックコーヒーが好きなので、ミルクを入れずに飲んでいた。すると彼はコーヒーにミルクを入れない人間の人格を否定するような話をした。具体的な話は、はっきり覚えてないが、「コーヒーにミルクを入れない人間の性格は黒い」というような論理性を欠いた話だったと思う。

 嫌われてしまうと、理不尽なことを言い、攻撃する人が世の中にはいるものだ。

 その前に、日本で「僕が、リコーマイクロエレクトロニクスに報復した」という非常におかしな噂を流され、仕事を失った。僕がリコーに報復した方法は、リコーのバイトをサボり、クビ同然で辞めたが、ほかの工場で休まずに働いたことが、リコーに対する報復になったという論理性を欠いた噂だった。

 コヒーにミルクを入れずに飲んでいる僕を、彼が怒っているのを聞いて、日本での非常におかしな出来事がなんとなくわかったような気がした。

 ところで僕の悪口が安宿の従業員に伝わったのか、チェックアウト後、宿に荷物を預けていたら、日本人に人気のある宿なのに、短波ラジオとナイフを盗られていた。


 <発展途上国の散髪屋>

 僕は発展途上国の散髪屋でよく散髪をした。なかには布で服をおおわず、散髪をするところがあった。髪の毛が直接服の上に落ちてきた。散髪が終わると、服の上の髪の毛を手で払ってくれた。まあ散髪代が200円もしないからいいか と思った。しかも髪を洗ってくれない散髪屋のあった。まあ宿に帰って頭を洗えばいい。10分ぐらいで散髪を終わらせるところもあった。しかし、宿に帰って鏡をみると、ほとんど問題ない。発展途上国に行って、散髪は10分ぐらいで出来るものだと知った。たまに散髪屋の人がテレビに熱中していて、散髪を拒否されたこともあったが・・・



   <規則正しい中国、バスの旅>

 中国では、ガイドブックに載っているような有名都市は、外国人はだいたい高いホテルにしか泊らせてくれない。しかし無名都市はだいたい安宿でも泊らせてくれる。中国はバス路線が発達していて、日本人は漢字が読めるので地図さえあればどこでも行ける。僕は毎朝、7時頃に起きてバスに3~5時間乗り、目的地に着いて、バスターミナルの近くの安宿にチェクインし、昼食を食べて、その町を歩くという旅が好きだった。中国の無名都市に1日だけ滞在し、また別の無名都市に移るという規則正しい生活をしながら旅をしていたことが数度ある。しかし最近では無名地方都市も近代化が進み、バスターミナルが郊外に移転し、このような旅も難しくなってきた。

 


  <貧乏旅行の僕がビジネスクラス>

 バンコクの安宿街カオサンから20キロ以上離れた空港に行くことになった。カオサンからの旅行代理店が手配するミニバスは、約240円もしたので、僕は約14円の市内バスで向かうことにした。ところがバス停でバスを待っていても、空港前を通過するバスがなかなか来ない。かなり待ってやっと来た。市内バスは、バス停でよく止まり、高速道路を走らないので非常に遅い。空港に着いたのは、チェックイン終了間際だった。飛行機に乗り込むと、そこはビジネスクラスだった。空港にギリギリに着いたので、エコノミークラスは満席になっていてビジネスクラスにまわされたようだ。


   <飛行機欠航の幸運>

 ニューヨークからコスタリカの首都サンホセに片道航空券で飛ぼうとしていた。ニューヨークの旅行代理店で航空券を探し回ったが、どこも400ドル以上する。やっと190ドル(当時のレートで約26000円)ぐらいの航空券を見つけた。さっそく買い、空港に行った。何とその便は欠航だった。係員は「今日はニューヨークの知人の家に泊らせてもらってはどうですか?」と言ったが、僕が「ニューヨークに知人はいない」と言うと、係員は「今日はヒューストンまで行ってください」と言い、ホテルの宿泊券と10ドル(約1400円)の食事券をくれた。僕は海外で、一食1400円もするようなものを食べるたのは、それまで2度しかなかった。ヒューストンに着くと、ホテルはホリデーインだった。一泊8000円ぐらいするだろう。僕は海外でこんな豪華なホテルに泊ったことはない。欠航のおかげで、贅沢をしてしまった。



   <フンザの満天の星空>

 ヒマラヤ山脈の中にあるパキスタンのフンザという村に行った。夕方、食堂に入り、出ると仰天してしまった。満天の星空なのだ。雲がかかったように見えるのが天の川らしい。ゆっくり動く人工衛星まで見えた。いろんなところで星空を見たが、こんな凄まじい星空は見たことがない。星空とうより宇宙を見ているような神秘的な感じだった。ガイドブックにこの星空のことは触れてないので、かなり運が良かったのだろう。 数年後、地元鳥取市の図書館で、辻みゆき著「女ひとりドケチ旅」という本を見つけたが、彼女は中国からパキスタンに行くバスで一緒になった人で、同じ日にフンザにいた人だ。彼女も著書の中で、この神々しい星空のことに触れている。
 詳しい内容は「辻みゆき」で検索して通販で買ってください。なお彼女のことを「姫」と呼んでいる日本人は僕ではありません。



   <旅なれていない頃の香港の安宿>

 当時、香港で最も安いと言われていた重慶大廈のタイムトラベラーズロジ(?)のドミトリィーに泊った。2段ベットが並んでいた。宿のいい環境を保つためか、宿泊者は欧米人と日本人だけだった。日本に行った欧米人に日本の感想を聞くと「高い!」としか言わなかった。宿を出て行く人たちは、「シドニーに行く」とか「カルカッタに行く」とか「ロサンゼルスに行く」とか「パリに行く」とか言って、次々に世界各地に飛んで行った。当時、香港発の航空券が安かったのだ。旅なれていない僕には、衝撃的に感じられた。



   <蛍が多いのはいいが、嫌な虫もいる>

 グアテマラのマヤ文明最大の遺跡ティカルには、首都グアテマラシィティーから、飛行機で飛んだほうが安くて、早いそうだが、時間のある僕は陸路で行くことにした。ある村からある村に行くには、バスがなく、トラックの荷台に乗せてもらって行かなければ、行けないようだ。こういうことは発展途上国を旅してよくあることだ。ところがトラックが来ると、トラックの荷台には荷物が満載されていた。荷物の間にはさまって、次の小さな村に行った。水道も電気もない村だった。宿では雨水を溜めた四角いコンクラートで囲った中にある水で、身体を洗った。外にあるので、裸になるわけにはいかず、パンツ一枚になって、洗った。その村で暗くなると、道端に小さな光が見えた。蛍だった。やがて多くの蛍がいたるところで光出し、絶景だった。蛍は30分から1時間ぐらい光り、やがてすぐ真っ暗闇になった。日本の蛍は宙を舞い光るが、ここの蛍は宙を舞っているのはいなく、地面で光っていた。宿に帰り、寝た。夜中、身体のあちこちがかゆい。どうも虫にかまれたらしい。自然が豊かで、蛍が多いのはいいが、不快な虫もいるのは何とかならないか。



   <アメリカ人もお世辞を言うのか?>

 ロサンゼルスの店で革ジャンを見ていた。女の子の店員が、なんやかんや話しかけてきた。店員は突然「あなたは日本人ではない!」と言った。僕は「なぜ?」と聞いた。彼女は「日本人は英語が話せない。でもあなたの英語はうまい」と言った。欧米人から「英語がうまい」と言われたのは、はじめての体験だ。彼女は高価な革ジャンを買わせようとして、僕にお世辞を言ったのだろう。アメリカ人もお世辞を言うとは・・・ 当然か。



    <屋外で寝るのは・・・>

 はじめてインドに行き、カルカッタに着き、バックパッカーの間で有名な安宿街サダルストリートに行った。大学生の春休みが終わりまじかで、どこの安宿も満室だった。やっとマリアホテルの屋上に泊らせてもらえることができた。ところが屋内のドミトリィーと、雑魚寝の屋上と宿泊費が同じなのだ。数後年、バックパッカー(蔵前仁一)が書いた本に、僕と同じマリアホテルの体験談が書いてあった。「荷物を盗まれる心配がないだけ、屋内も屋上も一緒」というようなことが書いてあった。そんなことはない! マリアホテルの屋上に寝ようとした時、誰かが蚊取り線香をつけたが、風があって少しも効かない。蚊に刺されまくって朝まで、ほとんど眠れなかった。



   <ヨーロッパのスズメ>

 僕は、ヨーロッパでは、レストランに入って食事をするお金がないので、だいたいパンを買い、公園で食べていた。1ヶ国に1回ぐらいは記念にレストランで食事をしていたが・・・ 公園でパンを食べていると、スズメ達が寄って来た。僕がバンをちぎって、パンを手で差し出すと、スズメが直接ついばむ。ヨーロッパのスズメは人になれているらしい。ヨーロッパの人達は、動物にやさしいのだろう。



   <スイスの美しい女の子には驚いた>

 スイスのベルンという町の公園を歩いていると、美しい女の子がパンティー一枚で日光浴をしていた! 僕はすっかり驚いてしまった。日本で、美しい女の子がこんな格好で公園で日光浴していたらどうなるんだろう?・・・ その後スエーデンのストックホルムの公園で女の子達がTバック一枚で日光浴をしていたが、スイスでの衝撃があまりに大きかったので、そんなに驚かなかった。



   <中国の田舎の親切な宿の主人>

 だいたい中国のガイドブックに書いてあるような有名都市は外国人は安宿に泊めてくれない。僕は常山という外国人が行きそうもない小さな町に行った。安宿にチェックインした。その宿の一階にある食堂で、食事をしていると、女の子が、僕のテーブルの上にお金を置いた。彼女は中国語で何か言っているが聞き取れない。僕は一瞬「この宿は外国人は泊らせてはいけないことになっているから、出て行け」とお金を返したのか? と思ったが、そうではないらしい。女の子は紙に書いてくれた。それにはこう書かれていた。「宿の主人があなたの中国旅行を歓迎している。宿代も食事代も要らない」。



   <メキシコシティーの地下鉄で危機一髪>

 メキシコシティーの地下鉄に乗っていると、何だか2人の男の様子がおかしい。「襲われる!」と思い、警戒していた。すると1人が僕の後ろに回り、羽交い絞めにしようとした。僕は、警戒していたので、あわてて人の多いほうに逃げた。なんとか危機を逃れた。メキシコでは、地下鉄やバスで襲われても、周囲の人は関わりになるのを恐れて、見て見ぬ振りをするということがガイドブックに書いてあった。



   <もしかすると死んでいたかも>

 インドのブッダが悟りを開いた地ブッタガヤの村に行った。ブッタが悟りを開く前、苦行をした正覚山が近くに見えた。僕は歩いて行くことにした。ところがかなり歩いても、なかなか正覚山に着かない。空気がすんでいたいたから近くにに見えたのだ。やっと着き、しばらく見て、帰ることにした。乾季だったので広い川は水がなかった。喉が渇き、意識がもうろうとしてきた。耳に水が入ったような感じがして、耳からボーという音がしてきた。やっと川向こうの茶屋にたどり着き、疲労仕切った状態で、震える手でチャイ(ミルクティー)を一杯飲むと、急に元気になった。もし水のない川で倒れてしまえば、死んでいただろう。



   <機内食のざるそば>

 タイ航空でバンコクに行く時、機内食は日本食だった。僕は機内食が食べなれた日本食でガッカリした。小さな容器にざるそばが入っていた。ざるそばはたっぷり食べないと食べた気がしない。わさびが小指の先半分ぐらいのっていた。一口で食べた。わさびのせいで鼻にツーンときた。こんなひどい機内食を食べたのは、はじめてだ! 外人が食べたら、日本食に偏見を持つようになるではないか? と思った。しかし日本人にこのことを話すと、タイ人などは寿司にわさびをたっぷり付けて食べると言っていた。辛いものが好きなタイ人は、わさびの鼻にツーンとくるのも好むのだろうか?



   <ショッピングセンターに行け!>

 欧米人に人気のあるインドのプシュカルというヒンズー教の聖地に行った。聖なる美しい湖があり、その畔には寺院が建ち並んでいた。ところがその聖なる湖の畔には人があまりいないのだ。僕が湖の畔にたたずんでいると、男が「神に捧げる花束を買え」と言った。僕は拒否すると、「ショッピングセンターに行け!」と怒鳴った。なるほどみやげものを売るショッピングセンターには大勢人がいた。また欧米人向けのレストランには大勢の欧米人がいた。プシュカルに訪れる人の多くは、聖なる美しい湖より、ショッピングセンターや欧米人向けのレストランのほうに興味があるのだろう。



   <冷房の効かせ過ぎ>

 ミャンマーの首都ヤンゴンからマンダレーに夜行バスで行くことにした。冷房の効かせ過ぎで寒いのだ。ミャンマー人はジャンバーまで着ている。休憩で外に出るとやはり寒い。なぜこんなに寒いのに冷房を効かせているか疑問だ。昔のタイの夜行バスも同じだった。ガイドブックによると「運転手の眠気を抑えるため」と書いてあったが違うだろう。ところで4月に中国に行った時、高速道路を通る高いバスに乗ったことがあったが、やはり寒いのに冷房を効かせていた。乗客の中国人は、寒さに我慢できないのか、窓を開けていた。



   <インドの高いミネラルウオーター>

 はじめてインドに行った時、1リットルのペットボトルのミネラルウオーターが、約50円もした。インドの物価から考えて高い。ガイドブックには水道水は飲んではいけないと書いてある。外国人観光客の少ない南インドに行けば、ミネラルウオターが売っていないらしい。そこで僕は薬局で水の浄化剤(塩素?)を買い、ペットボトルに水道水を入れ、その錠剤を入れて飲んでいた。行く先々で、水の味が変わるのがわかった。不潔なことで有名なカルカッタの水はなぜかおいしかった。仏教の石窟で有名なアジャンタに行った。空気が乾燥していて用意していた水はなくなった。ミネラルウオーターを買おうとすると、約200円もする。安宿の1泊の宿泊費と同じだ。「なぜこんな高いのか?」と聞くと、「遠くから運んでくるため」と言っていた。ミネラルウオターを仕方なく買い、石窟を見ていると、何人かのインド人が「水をくれ」と言った。インド人は、容器に口をつけて飲まず、容器を高く上げ水をこぼし、それを口で受けて飲むから、あげても不潔でない。ところが200円もするような大金のミネラルウオーターなので、断った。ところでその後、僕も容器に口をつけて飲むと、細菌が繁殖しやすくなるので、ほかの国に行っても、ミネラルウオーターの容器に口をつけて飲まず、インド人風の飲み方をする習慣がついた。



   <中国のインチキ薬>

 中国では原則として外国人が泊まれるホテルが決まっている。しかしガイドブックに載っていない無名都市はたいてい外国人でも安宿に泊まらせてくれる。中国通の日本人に聞くと、外国人が来ないような都市の安宿の店主は、外国人が泊まれるホテルは決まっているという規則を知らないからだそうだ。中国では安宿でもだいたいテレビがある。テレビを見ていると薬のコマーシャルが非常に多い。こんなコマーシャールを見た。頭の禿げた男が憂鬱そうな顔で、鏡に映した頭を見ていた。そして頭に薬を塗る。数ヶ月後、髪がふさふさになった男がニコニコ笑いながら、スキップしている。髪の毛がはえる薬なんてないだろう。こんなインチキ薬のコマーシャルを流していいのだろうか・・・



   <テヘランの宿探しは困った>

 バスでイランの首都テヘランに着いた。どうも郊外バスターミナルに着いたらしい。当時イランのガイドブックは発売されていなく、しかもイランでは英語がほとんど通じなかったので、困った。しかしバスの中で知り合った人が、タクシーで市街地のホテルに連れて行ってくれた。1泊60ドル。当時のレートで約8500円。パキスタンの国境では1泊100円もしない安宿に泊まった僕には驚くべき料金だった。当時のテヘランでは、外国人料金が設定されていたようだ。そのホテルに連れて行ってくれたイラン人は、タクシーの運転手に「こいつを安い宿に連れて行ってやれ」と言ったようだ。タクシーに乗って宿探しをしたが、どこも満室。やっと30ドルのホテルに空き室があったので、仕方なく、そこに泊まった。30ドルのホテルは僕にとって高すぎるので、翌朝出ようとすると、10ドルまで負けてくれた。


   <エジプトでの凄い偶然>

 観光地ルクソールから、無名都市アシュートに明日鉄道で行こうと駅に行った。普通ならセカンドクラスの切符を買うのに、ファーストクラスの切符が安かったせいか、なぜかファーストクラスの切符を買った。宿に帰り、ラジオジャパンの日本語放送を聴いていると「エジプトのアシュート付近で列車のファーストクラスが銃撃され、台湾旅行者に負傷者が出た模様」というニュースが飛び込んできた。僕はあわてて駅に行き、切符の払い戻しを求めたが応じてくれなかった。銃を持った警備員らしき男に、銃撃事件のことを聞いたが、無表情な顔をして黙っていた。窓口で聞いていると、駅長らしき男がやってきて、「銃撃事件はデマだ。大丈夫だ」と言った。ファーストクラスの切符を放棄して、バスで行くのはもったいないから、アシュートまでの切符で次の町エルメニアまで行くことにした。翌日、列車に乗りアシュートを通り過ぎ、エルメニアで降りたが、追加料金は請求されなかった。発展途上国はいい加減だ。宿にチェックインして外に散策に出ようとすると宿の人が「警察の許可が出るまで、外に出てはいけない」と止めた。やがて警察の許可が出た。危なそうな雰囲気だったが、宿に閉じこもっているのも、もったいないから、外を散策した。翌日カイロに帰った。町を歩いていると、日本人が「ルクソールに行きましたか?」と声をかけてきた。ルクソールに行くのには、列車やバスなど陸路で行かず、飛行機で行け という勧告が日本大使館から出ているとのことであった。


   <ギリシャのパルテノン神殿で見かけた有名人>

 パルテノン神殿に昇る階段を、日本人の中年の男が、まるで相撲取が土俵で相手を睨みつけるような姿で上がって来ている。よく見ると、有名な哲学者梅原猛だった。有名人だから、こんな表情をして上がって来れたのだろう。普通の人がこんな表情をして上がって来たら、頭のおかしい人と思われるだろう。またパルテノン神殿の周辺を歩いていたら、視線を感じた。見るとNHKの若いニュースキャスター宮崎緑だった。有名人から見つめられて、嬉しかった。なおこれは僕が若かった時の話です。


   <広州の高過ぎる宿>

 広州には何回行ったが、外国人が安宿に泊まるのは不可能なようだ。そこでガイドブックに書いてある広州で最も安い宿、広州青年旅舎に行った。ガイドブックに書いてある値段は、ドミトリィー(大部屋)、50元(約750円)。行って見ると、2段ベットが並んでいるドミトリィが1泊150元(約2200円)だった。物価の高いスイスのユース並だ。フロントの人に聞くと、「今、広州フェアーが開かれている」とのことだった。同室の日本人の話では急に値上がりしたという。中国の地方都市に行けば、シングルで300円、田舎のほうに行けばシングルで150円ぐらいで泊まれる。ここ以下の安宿に泊まれそうになかったので、泣く泣く150元払って泊まった。


   <インドでのチャイのカップ>

 チャイ(ミルクティー)を露天で頼むと、風情のある陶器のカップに入れてくれた。インド人は飲み終わると、カップを地面に投げて割っていた。僕はこの陶器のカップが気に入り、大切に貯めていた。カルカッタのドミトリィー(大部屋)のベットの下に、チャイのカップを置いていたら、ゴミだと思われ捨てられたらしい。僕はゴミ箱まであさって探したが、見つからなかった。宿の人に「チャイのカップがなくなった」と言っても、僕が何を言っているのかわからない。その後、宿の人が、陶器のカップでチャイを飲んでいた。僕は「そのカップだ!」と言った。宿の人は「ハハハ」と笑い。「おまえにやる」と言っていた。インド人にとって、チャイの陶器のカップはゴミ同然らしい。



   <タクシーにまで乗り込んできた しつこい客引き>

 廈門のバスターミナルで降りると、廈門ツアーの客引きがしつこく話しかけてきた。周囲の町並みを見ると閑散としていた。郊外バスターミナルに着いたらしい。客引きを振り切り、タクシーで市街地に向かおうとすると、何と客引きまで乗り込んできた。市街地まで10元(約75円)。僕は客引きに「5元払え!」と言ったが、払おうとしない。タクシーの中で揉めてしまった。タクシーのドライバーは笑っているだけだった。結局、僕が10元払った。タクシーから降り、宿探しで町を歩き出しても、客引きは「ツアーに参加しろ」としつこく、ついてきた。こんなに人を不快にさせて、日本人がツアーに参加する訳ないだろう。もちろん僕は断った。中国人は、これ程しつこくされたら、ツアーに参加するものだろうか?・・・



    <中国の公衆トイレ>

 中国の公衆トイレにはドアがなかった。ドアがないどころか、仕切りさえないところが多かった。その理由は、以前、トイレを個室にすると、政府の批判の落書きを書かれてしまうからだったそうだ。仕切りのないトイレで、携帯電話をかけている姿を見て、笑ってしまったことがある。
 中国の携帯電話の普及は、日本より早かった。その後人から聞いた話では、電話線を引くのが大変なので、携帯電話が普及したとのこと。


    <ビジネスクラス>

 中国の広州に行こうと、空港のチェックインカウンターに行った。驚く程、美しい女の子が搭乗手続きをした。飛行機に乗り込むと、そこはビジネスクラスだった。チェックインは早めに済ませたから、エコノミークラスが満席でビジネスクラスに回されるはずないのである。搭乗手続きにミスがあったのだろう とあまり気にしなかった。
 ところが、こういう文章を書き出して、冷静に考えると、搭乗手続きをした美しい女の子が、僕の視線に気づき、特別にビジネスクラスに乗せてくれたのでは?・・・


     <2ドル札>

 かなり以前、本で「2ドル札は珍しいから、2ドル札が手に入ったら大切に保管しておけ」と書いてあったのを読んだ。しかし2ドル札は見つけた人が保管してしまうので、滅多に流通していないそうだ。アメリカ人に聞いたら「見たことがない」と言っていた。中国の昆明の茶花賓館のショーウインドウで初めて2ドル札を見た。さっそく買おうとしたが、「これは売り物ではない」と断られた。
 その後、カンボジアのプノンペンに行くと、露天の両替屋が、2ドル札を3ドルで売っていたので、さっそく買い、ついに2ドル札を手に入れた。
 しかし、2ドル札を手に入れるのは容易なようだ。「2ドル札」を検索すると、新品が2000円ぐらいで買える。僕の持っている2ドル札は、折り目がないから未使用だろう。


     <超貧乏旅行の終り>
 
 バンコクにはよく行った。バンコクに着くと、空港の前にあるバス停で、バックパッカー街カオサンに行くバスに乗ってカオサンに行っていた。カオサンまで15円ぐらいだったからである。大学生が休みに入って、バンコクに行くためバックパッカーの間で有名な(だった?)エア・インデイアでバンコクに向かった。乗客のほとんどは日本人バックパッカーだった。バンコクの空港に着くとさっそく空港前のバス停でバスを待っていたが、日本人は僕1人だった。
 以来、カオサンまで300円ぐらいするエアポートバスでカオサンに行っている。しかしエアポートバス乗り場にも外国人の姿は少ない。外国人のほとんどはタクシーで市街地に向かうようだ。



     <おかしいのはどっちだ!>

 カルカッタのサダルストリートに滞在していた。近くの食堂にいると、同宿の2人の女の子が、僕のテーブルの斜め前に座った。日本人が少ない所では、こういう場合、男が女の子に話しかけるのが礼儀だが、サダルストリートには、大勢の日本人がいる。話しかける必要はない。僕は無視して、注文していたコーヒーを待っていた。コーヒーがテーブルの前に置かれた。彼女達の1人は、砂糖をバンと投げつけるように置き、「おかしい! 行こうか」と言って、ほかのテーブルに移った。
 その後、宿で、その2人の女の子が長椅子に座っていた。1人のズボンをはいた女の子が椅子に膝を立てて、股を大きく広げた。僕は彼女の股を眺めていた。するとその女の子は意味ありげに笑っていた。もう1人のスカートをはいていた女の子は、非常に不機嫌そうに顔をしかめていた。



    <中国人の親切>

 中国で外国人が行かないような町の宿に泊まった。宿の食堂で食事をしていると、 宿の従業員が、テーブルの上のお金を置いた。
従業員は中国語で何かしゃべっているが
聞き取れない。 怪訝に思った。 従業員は紙に中国語を書いた。紙にはこのようなことが書いてあった。

 「あなたの中国旅行を歓迎します。宿代も食事代も無料にします」。



   <イランでの驚き>

 イランはイスラムの戒律が厳格で、酒は飲めない。
イランに行った時、籠を持った物売りの少年がいた。籠には日常雑貨品がのっていた。その中に薬があった。その薬をよく見ると、代表的な抗不安薬ジアゼパムだった。
 なお日本ではアルコール依存症の患者に、アルコールの代わりに抗不安薬を飲ませて治療することがある。

 <ストロー>

 はじめての海外旅行は韓国だった。ジュースを買うとストローを瓶に入れてくれた。たったそれだけのことでカルチャーショックを感じた。後年、なぜ発展途上国に行くと、ジュースにストローを入れてくれるのだろうと日本人に聞いたら、飲み口が汚いからと言っていた。翌年、インドに行くと、やはりジュースの瓶にストローを入れてくれた。なぜかストローがしょっぱいのだ。インド人は手を洗う習慣がないらしいので、ストローの先を持って、瓶に入れると、手の汚れがストローの先に付き、ストローを口にするとしょっぱいらしい。

   <中国の爪切り>

 中国で爪切りの取っ手に毛沢東の肖像が描かれている爪切りを買った。宿に帰って爪を切ろうにも切れない。店に行って換えてもらおうとしても換えてくれない。しつこく苦情を言っていたら、何とか換えてもらった。中国で、爪切りを買う時には、試し切りしたほうがいい。

   <フランスの悪徳両替商>

 パリに土曜日に着いた。銀行は営業していない。有名なトーマスクックがあった。そこで1万円両替してもらった。平日の銀行の為替レートを見ると2千円ぐらい損をしていた。銀行が休日の時はトーマスクックもかなりボッたくるな。

   <インドの悪徳両替商>

 インドでは銀行でも騙すと言われていた。僕はニューデリィーで、世界的に有名なアメリカンエクスプレスに行った。ここなら大丈夫だと思った。両替してもらい、インドルピーを数えていると、かなり足りない! 僕の驚いた表情を見て、職員は、さっと残りのお金を出した。

   <運が悪い>

 スイスのユースで日本人の女の子と知り合った。彼女には彼がいて、このユースで待ち合わせる予定だったらしい。ところが彼が来ない。彼女は僕に「近くに湖があるから、明日、水着を持っていって泳ぎましょうね」と言った。水着に着替える彼女の裸が見られるのではないか! 僕は期待していた。翌朝、彼女と湖に行こうとしていた。細道があり、僕が「こっちのほうが近道だよ」と言い細道に入ると、彼女の彼とバッタリはち合わせてしまった。何と運が悪いんだろう。彼女の裸が見れなくて残念・・・

   <運び屋の手伝い>

 沖縄から船で台湾まで行った。船の中で知り合ったおばさんに、「これを持って税関を通って」と頼まれた。3キロぐらいの日本の商品を運ぶだけで、千円もらった。運び屋は儲かるのだろうか?・・・

   <Japan>

 2度目の海外旅行は、まず台湾に行った。店の中で店員が弁当を食べてる姿に、驚いた。その後東南アジアを周り、店員が店の中で弁当を食べている姿をよく見かけた。英語版のガイドブック「Japan」には「日本では人前で食事をする習慣がない」と書かれていたが、日本が特殊なんだろうか?・・・

   <カオサンのおばさん>

 バンコクの外国人しか泊らせてくれない安宿が多くあるカオサンにはよく行った。深夜カオサン通りの道端に座っていると、女の子らしい人が声をかけてくる。ところがたいていゲイなのだ。ある日、近づいて来たゲイを追い払うと、今度は50歳ぐらいのおばさんが近づいて来て、「私は、本物の女だ。いくらで買う?」と言われ、すっかり閉口してしまった。

   <中国の魚料理>

 中国の内陸部の食堂で、メニューを見て、「魚○○」という料理を頼んだ。フナそっくりの魚が出てきた。それ以来、中国の内陸部では魚料理は食べないことにした。中国沿岸部で見たことのない魚を焼いたのが売っていた。僕は食べてみることにした。食べるようとすると小骨だらけで、とても食べれない。残してしまった。中国では日本で見たこともない魚は注文しないほうがいいと思う。

   <How are you?>

 旅をはじめて間もない頃、シンガポールの宿のドミトリィーで欧米人から、突然「How are you?」と言われた。一瞬どういう意味かわからず、動揺したが、すぐに中学一年に習った簡単な言葉とわかった。しかし本来「I am fine.thank you.hou are you?」とか「OK!」言うべきところを、うっかり「How are you?」と答えてしまった。

   <日本人のトップレスの女の子におじぎ>

 はじめてタイのコパンガンに行った時、さっそくビーチに出た。すると、ブラジャーをはずした日本人の美しい女の子と目があった。僕はビビってしまい、日本風におじぎした。こんな開放的な南の島のビーチで、日本風におじぎしたらまずいだろう。当然のごとく無視された。なお今のコパンガンは観光化が進み、トップレスの日本人の女の子はいないらしい。

   <機内食も手づかみで食事するインド人>
 
 インドには、スプーンやホークを使わず、手づかみで食事をする習慣がある。カルカッタからバンコクに行く、国際線でインド人と乗り合わせたが、インド人は国際線の機内食まで、手づかみで食べていた。

   <昔のバックパッカー向けの日本食>

 日本人バックパッカーが多く来る町には、よく日本食レストランがあった。たいてい現地の食べ物よりまずかった。インドだったか中国だったか忘れたが、卵丼を注文した。出てきたのは、皿に御飯を盛り、玉子焼きをのせ、その上にソースをかけたものだった。日本の卵丼と違い過ぎる。食べてみると当然まずい。しかし最近では、まずくない日本食が食べれるようになったようだ。

   <昆明のゲイ>

 中国の昆明の町を夜、歩いていると、後ろから誰かにつけられているような気がした。恐くなり、後ろの男に、日本語で「何だ!」と言った。よく顔を見ると、男のくせにアイシャドーを塗っていた。彼は、握手のしぐさをしたので、握手した。それで男は離れた。その男はゲイだったらしい。共産主義色がまだ濃かった中国に、ゲイがいるとは、驚きだった。

   <中国人の女の子の戦争の話>

 中国で女の子とうちとけると、なぜかよく戦争の話になる。例えば「昔、中国と日本は戦争をした」とか「小さい日本は、大悪者」とか言われたりした。だいたい中国人は「小さい日本」という言葉が好きなような気がする。日本では戦争の残虐行為があまりマスコミの話題となっていないようだが、中国では今だ話題となっているようだ。「やった者は覚えてないが、やられた者は覚えている」。

   <24時間熱水>

 中国の大きな安宿に行くと、だいたいシャワーのお湯の出る時間が決まっている。ところが小さな安宿では、時々「24時間熱水」と看板が出ていることがあった。何のことはない、プロパンガスでお湯を作るのだ。しかし、そういう宿の3分の1はプロパンガスが切れていて、シャワーからお湯が出なかった。寒い時は、悲惨。

   <バンコクの人は氷好き?>

 はじめてバンコクに行き、食堂でコーラを頼んだら、コップ山盛りに細かく刻んだ氷を入れ、その中にコーラをそそいだ。炭酸が抜けて、水ぽく、おいしくない。それ以来僕は、バンコクの食堂でジュース類を注文したことはない。暑いバンコクの人は氷が大好きなんだろうか?

   <ミネラルウオーターで口をすすぐ>

 日本人と話していると「歯をみがいた後、ミネラルウオーターで口をすすぐヤツがいる」と言って笑っていた。世の中には病的に神経質な人がいるものだと思っていた。バンコクで洗面台が見える安宿に泊まっていた。欧米人達の約半数は、歯をみがいた後、ミネラルウオーターで口をすすいでいた。よくこれで発展途上国を貧乏旅行できるものだ と感心した。

   <泊まった宿がわからなくなった>

 はじめての海外旅行は韓国だった。水原というそれほど大きくない町に行き、宿を見つけ、町を散策した。ところが宿に帰ろうにも、宿がどこにあるか全くわからなくなった。数時間探し回りやっと見つけた。その後40ヶ国以上旅したが、この教訓が生き、宿に帰るのに少し戸惑ったことはあるが、だいたいすんなりと帰れるようになった。

   <中国の切れない髭剃り>

 中国の露天で髭剃りの刃が安く売られていた。安いので、数年分もつだろうと思えるぐらい大量に買った。取っ手も1本買った。日本に帰り、その刃で髭をそろうにも全くそれない。どうしてこんな物を売っているのだろう? そもそも切れない髭剃りの刃を生産しているのが不思議だ。

   <石油の出る国は違う>

 パキスタンからイラン国境の町に着いた。1泊100円もしないような安宿に泊まった。シャワーを浴びようとすると、夏なのにお湯が出てきた。石油産出国は凄いと驚いた。なおそこは暑い地域だったので、気温のせいで水道水がお湯になっていたのかもしれないが・・・

   <節約のし過ぎ>

 メキシコの遺跡や博物館の多くは金曜日が無料だった(日曜日だったかな?)。そこで僕は無料の日に、日程を合わせるようにメキシコを旅した。しかし入場料は200円ほどだった。今から考えると、それほど節約する程でもなかったと思うが・・・

   <アメリカ入国時の失敗>

 ロンドンからニューヨークで片道切符で飛ぼうとしたが、片道切符で、ビザなしでは航空会社が搭乗を拒否するらしい。そこで僕は、アメリカ大使館に6回も通うという大苦労の末、ビザのを取得できた。アメリカのイミグレでは日本人は素通りできるらしい。僕はニューヨークのイミグレで、苦労して取ったアメリカビザのページを見せた。係員は「なぜビザを持っているんだ?」と聞いた。「片道航空券しか持ってないから」と答えると、「アメリカで働くつもりか?」などといろいろ聞いてきて、もめたがなんとか入国できた。ビザのスタンプが押してあるページを見せたのが失敗だった。

   <汚い川で入浴>

 中国の貴州省の小さな村に行った。宿には水道の設備はあるが水が出なかった。外を散策していると、川で身体を洗っている人達がいたので、僕も洗面道具を持って川に行った。ジョギングパンツ一丁で川に入り、身体を洗ったが、上流の住民がその川をゴミ捨て場にしているらしく、汚い川だった。

   <ニーハオ>

 中国のガイドブックを読むと、「こんにちわ」に相当する中国語は「ニーハオ」と書いてあった。ところが中国を旅して、庶民から「ニーハオ」と言われた経験は滅多にない。安宿に泊まると時々「御飯食べたか?」と聞かれた。中国の日本人留学生は、中国の挨拶の言葉は「御飯食べたか?」と言っていた。ところでタイの挨拶の言葉は「サワデー」だが、これは外国人が普及させた言葉だそうである。

   <ゆで卵>

 パリで、小さな八百屋らしき店で、ゆで卵らしき卵がレジのところに盛ってあった。僕は英語で「これはゆで卵ですか?」と聞いた。店の人にも近くにいるおばさん達にも通じない。やっと一人のおばさんが「NO. NO.」と言った。フランスでは英語が通じにくいと聞いていたが、僕より英語の下手な欧米人がいるとは思っていなかった。

   <フランス人の意地悪>

 パリの銀行で両替しようと思い、銀行員に英語でレートを聞くと、銀行員は、英語ができるはずなのに、フランス語でレートを答えた。僕には理解できなかった。フランス人はフランス語に誇りを持っているらしい。

   <マンゴかぶれ>

 南インドに行くと、マンゴがを売っている露天が目立った。食べてみると大変おいしいし、安い(1個、約10円)。食事がわりにマンゴを食べていた。そのうち蕁麻疹が全身にでてきた。痒くて気が狂いそうだった。僕は40度近い熱が出ても、海外では病院には行かなかったが、この時は我慢できず病院に行った。後で知ったことだが、マンゴはウルシ科の植物である。

   <中国の散髪屋>
 
 中国では、散髪屋によく行った。散髪する前に、時間をかけて、髪を丁寧に洗ってくれ、頭皮までマッサージしてくれるから気持ちがいい。ところが散髪は15分ぐらいで終わる。髪を洗う時間と同じぐらいでは・・・ 中国では10回ぐらい散髪してもらったが、散髪終了後、髪を洗ってくれたことがないのである。これでは散髪屋を出て、町を歩くと、髪の毛が服に落ちてくる。まあ高級ホテルの散髪屋に行けば、散髪終了後、髪を洗ってくれると思うが・・・

   <コスタリカは治安が悪い?>

 コスタリカといえば、平和なイメージがある。首都サンホセで、ベリーズのビザを取ろうと、ベリーズ大使館に行った。高級住宅地にあった。その周辺の家には、鉄ごうしで囲んであった。まるで動物園の檻の中に家が建っているようだった。かなり治安が悪いのだろう。こんな光景は、後にも先にも見たことがない。

   <タイの南の島で、日本人の女の子をビックリさせる>

 タイの南の島コパンガンで、日本人の女の子がTバック一枚で、ビーチに座っていた。まだ色は白い。来たばかりだろう。こんな格好でビーチにいるのは勇気がいるはずだ。そこで僕は、彼女をビックリさせようと思い、彼女を見ながら、彼女の足のつま先、5センチぐらいのところまで異常接近し通り過ぎた。彼女は上を向き、僕の顔を見ると、血相を変えて驚いていた。なお今のコパンガンは観光化が進み、Tバックの日本の女の子はいないらしい。

   <清平市場>

 中国人は「四足のものなら、机以外何でも食べる」」と言われていた。広州に清平市場という野生動物を売っている市場があった(もしかすると今でもあるかもしれない)。食べるための、狸、猫、兎などが売られていた。外国人観光客は、「中国人は、こんなものを食べるのか」と見物に来ていた。ところがその数年後、清平市場の付近を歩いてみたが、清平市場が見つからない。清平市場の付近には、愛玩用の犬、熱帯魚、金魚などが売られていた。中国当局が中国のイメージダウンを避けるために、清平市場を潰したのか?・・・

   <中国での不思議な体験>
 
 中国の長沙でバスに乗っていたら、隣の男から不気味な雰囲気が漂ってきた。男の顔を見ると、どうてことない。しかし次第に恐怖心が強くなってきた。バスから降りると、ズボンのポケットのあたりがスースーする。見ると、ポケットの近くが10センチぐらいバッサリ切られていた。幸運なことに、財布は無事だった。しかしその前、なぜ隣の男から不気味な雰囲気が漂ってきたのか、不思議に思った。

   <メキシコでの恐怖の体験>
 
 メキシコシティーの地下鉄に乗っていたら、2人の男が挙動不審だった。襲ってくるだろうと警戒していた。案の定、2人の男が襲ってきた。僕は警戒したしていたので、とっさに乗客の多い方に走って逃げ、危うく難をのがれた。
 数年後、旅なれたバックパッカーに、この体験談を話すと、彼は、「襲ってくるかどうかは、相手の表情を見ればすぐわかるよ」と言っていた。
  
   <バンコクでの不謹慎発言>

 バンコクの日本人宿で、日本人達と話をしてた。僕が「プノンペンなんかに長期滞在するヤツは、女目当てじゃないか」と言った。ある男が血相を変えて、怒り出した。僕は、けげんに思い、「プノンペンに長期滞在したことがあるのですか?」と聞いた。「ああ、あるよ」。
 その後彼は、エイズウイルスをも殺す殺菌薬が塗ってあるコンドームを、140個も持って、プノンペンに行ったそうだ。

   <フランスでは英語が通じにくい>

 パリの八百屋のようなところに行くと、ゆで卵らしき卵は積み重なっていた。僕が英語で「これはゆで卵ですか?」と聞いた。店員はけげんな顔をした。近くにいたおばさん達にも聞いてみた。やはりけげんそうな顔をされた。やっと1人のおばさんが「No.No」と言った。そのおばさんは、ほかのおばさん達にフランス語で何かを言った。おばさん達は笑っていた。どうもおばさん達は英語がわからなかったようだ。僕より英語が下手な欧米人がいるとは思わなかった。

   <英語の本場イギリス人の英語は流暢過ぎる!>
 
 ロンドンで航空券を買おうと旅行代理店に行った。店の人は、早口の流暢な英語でしゃべり、なかなか聞き取れない。とうとう店の人は怒り出し「もっと流暢な英語でしゃべれ」と叱られた。某旅のサイトの掲示板には「イングランド人は、平易な英語という物を話す事ができない」。

   <旅を続けているうちに英語が下手になった>
 
 旅をはじめた当初は、文法どおりの英語でなるべく話していた。ところが、東南アジアを旅していると、文法どおりの英語より、適当に、単語を並べて言ったほうが通じやすいようだ。文法どおりの英語を話すのが、面倒になり、単語を適当に並べて話す癖がついてしまった。

   <ドイツのおばさんの親切>

 スパーで袋に入ったバナナを買った。レジでバナナをよく見ると、どうも熟してないような感じがした。袋を破って見ると、やはり熟してなく食べられそうもない。袋を破ってしまったので買わなければならない。レジの人は「お金はいらない」と言った。前に並んでいたおばさんが、僕のバナナ代を払ってくれたそうだ。

   <マレーシアのバナナ>
 
 マレーシアでバナナを買った。最初、食べた時は、熟してなくおいしくなかった。次の日食べると少しおいしくなっていた。また次の日食べるとおいしくなっていた。この調子だと、1年以上置いておくと、かなりおいしくなるはずだ。

   <マレーシアで知り合った日本人の女の子>

 マレーシアで知り合った日本人の女の子と同じ部屋に泊まった。安宿だからからクーラーはない。暑いので、掛け布団はない。彼女は、夜になると、素っ裸になり「私、いつもこうやって寝るの」と言い、僕は、ビビってしまった。

   <中国・西安の日本人の女の子>
 
 西安のドミトリィー(大部屋)に泊まっていた。日本人の女の子が、英語で「私、着替えるから、私を見ないでと言った」。もちろん僕は後ろを向いて、彼女の着替える姿を見ていた。彼女は素っ裸にってから服を着替え出した。女性は、素っ裸になってから着替えるものだろうか?・・・

   <ヨーロッパの奇習>

 上海から陸路でヨーロッパに行った時には、服は薄汚れ、みすぼらしい姿になっていた。ヨーロッパのユースで食事をしていると、食べ残しを僕にくれる人が多いのだ。最初は「失礼だな」と感じたが、これはヨーロッパの習慣だろうと思った。その後、ヨーロッパを旅した日本人の何人かに、この体験を話したが、「そんな経験はない」という。ヨーロッパには、本当にこんな習慣があるのだろうか?・・・

   <日本人の女の子と大議論>

 1993年の地元大手企業との不可解なトラブルを日本人の女の子に話した。彼女は「そんな事あるはずない」と言った。僕は彼女に反論した。次第に議論が白熱してきた。ついに議論というより、口喧嘩になった。とうとう彼女は「あなた、おかしい!!!」と怒鳴った。しかしなぜか、彼女とはその後、妙に親しくなった。

   <先祖の祟り>

 1990年、海外に行くと言ってバイトを、辞めた。翌日家に手相見がやって来て、父親の手相を見、僕の海外単独旅行を言い当て、「これは先祖の祟りだからと、100万円近くする数珠を買うように勧めた。父親は「当たっている」と驚き、数珠を買おうとした、妹や母親は「お父ちゃん、馬鹿じゃないの!」と言っていた。僕が旅行中、手相見は何度も家に来たがそうだが、妹や母親の反対で数珠は買わなかったそうだ。

   <中米を旅すると海に落ちて死ぬ>

 中米を旅している時、1ヶ月ぐらい家に連絡を取っていなかった。家に帰ると父親が、「おまえが海に落ちて死んだかと思い、心配していた」と言った。確かに、中米は世界地図で見ると非常に細長く、あんな所を旅していたらバランスを崩して海に落ちそうだが・・・

   <入国審査のいい加減さ>

 エルバサルバドルに入国の際、イミグレションーンは「5Days」しか滞在許可をくれなかった。苦情を言っていると、「5」左側に「1」と書き、15日間の滞在が許可された。

   <印象の違い>

 エルサドバドルに関する本を読んでいたら、このようなことが書いてあった。「内戦、大地震にもかかわらず、人々の明るい笑顔が印象的だった」。僕も著者とほぼ同時期にエルサドバドルに行ったが、人々の呆然としたうつろな目が印象的だった。

   <ニカラグアの恐怖の夜>

 ニカラグアに行った時は、まだ内戦状態のようだった。アメリカから近いにもかかわらず、白人は見かけなかった。ある日熱が出てきた。夜、安宿で寝ていると、よく機関銃の銃声が聞こえ、恐かった。